バイク

2009年10月14日 (水)

カブでお遍路

カブでお遍路
写真はあるお寺の境内にあった石の彫刻作品。地元の作家菅利光作。真ん中に石鎚山系の出っ張りがあり、周囲に四国の海岸線が薄く刻まれているのがお分かりだろうか。そして丸い印はこのお寺の位置。そう、とうとうこのあたりまで私もやってきたのだ。今回は難所の60番横峰寺から65番三角寺までを打った。

 いつもの四国フェリーにはいいタイミングで乗れた。7時40分の出港。前回もらった時刻表が役にたった。やはりフェリーの駐車スペースはガラガラ。運行本数を減らしてこうだから、もはや打つ手は無さそうだ。平日だから土日の瀬戸大橋通行料金割引の影響とも言えなさそうだし。これは景気の回復を待つしか手がないのだろうか。

高松市内を抜け、もはや通い慣れた感のある国道11号線をたんたんと走る。ところが新居浜では思わぬものに出くわしてしまった。祭りである。四国三大祭りの一つに数えられる新居浜太鼓祭り。前方で何事かあったのか、時ならぬ渋滞が始まったので停止した車の脇をすり抜けながら前へ出ると、重さ3トンと言われる巨大な神輿が脇道から繰り出してくるところだった。その数7~8台。神様がお乗りになっていらっしゃるものとあってはしかたがない。じっとその通過を待つことにした。威勢のいいお兄さん達がそろいの法被を着て大勢出てきているのでクラクションを鳴らしてせかすような車も無い。しかし本来の祭りの作法からいうと、神が乗ったものを人が担ぐのだから、人は乗ってはいけないのだそうである。担ぎ手が少なくなって、氏子以外の他地域の単なるお祭り好きが多数参加するようになったあたりからしきたりが守られなくなってしまったのだろう。あるいは神様も片目をつぶって見ていらっしゃるのかもしれない。

自動車でお遍路をする場合、目的の寺を捜すのは楽である。各県が出しているのか、国土交通省の管轄になるのかは知らないが、主要な道路には必ず札所の寺を指し示す統一看板が掲示されている。お遍路をするひとはそれに従って車を進めればいいだけの話だ。自然に寺に到達するようになっている。山奥の寺の場合はそうもいかなくて、地元の人達が作った手作りの標識に頼ることになる。このあたりは先人達の苦労が偲ばれて感謝の気持ちが湧いてくる。今回も西条市を過ぎたあたりで横峰寺の標識を見つけて11号線から左折した。

 横峰寺は88ヶ所のなかでも難所として必ず名前が挙がる寺である。お遍路の前半に登場する徳島の3ヶ寺、焼山寺、太竜寺、鶴林寺と後半戦で再び登場する徳島の雲辺寺が難所として名高い。わがカブ号は既に前半の3ヶ寺を難なくこなしてきている。さて横峰寺の場合はどうだろうか。横峰寺については私的にちょっとしたセンチメンタルな思い出があって、是非とも訪ねてみたい寺だった。登りの途中で池が現れる。そこから脇道に入るといきなり急な坂道がはじまる。しばらく走ると簡単な小屋かけの料金所がある。料金所のおばさんに訊いてみると、やはり私の思い出に関連する寺はここだということがわかった。どこか88ヶ所の難所の寺のはずだったのだ。林業組合の経営になる有料道路らしいが、お遍路の長い行程の中でも有料道路は初めてだ。林の中をひたすら登ると終点の駐車場に到達した。寺はなんとこの下にあるのだそうである。標高700m。カブを置いて、徒歩で寺に向かって下っていると青大将が出迎えてくれた。

愛媛県のこのあたりの寺は単なる真言宗の寺というだけでなく他の信仰とも結びついているようなものが多い。それは石出寺のようなこの地方独特のお大師さん信仰であったり前神寺のような石鎚山を御神体とあがめる修験道と一体化したものであったりする。明治時代の廃仏毀釈運動以前には寺と神社の明確な線引きはなかったのだ。八十八ヶ所のなかにも地域性があるのが面白い。

61番香園寺は真言宗の独立教団である。高野山にも他の真言宗の分派にも属していない独立独歩の寺なのだ。伽藍自体が超モダン。付属の宿泊施設も豪華ホテルなみだ。しかし単立となるとなかなか大変だろうとよけいな心配をしてしまう。最上稲荷が55年振りに日蓮宗に舞い戻ったというようなことになりはしないのだろうか。若手の僧侶の育成に本山に支援を一切仰げないのだから。

 今回で愛媛県内の寺は廻り終えた。次回からは香川県に入る。正確には雲辺寺だけは徳島県に属するのだが。11号線を一路高松目指して帰っていると、背後から追い上げてくるバイクがバックミラーに映った。次の信号で並んでみると、なんとそれは新型スーパーカブではないか。こんなところで遭遇するとは。エンジン、サスペンション、フレームと全く新設計のこの新型に惹かれるものはあるが、現在のところは今の90改に乗り続けるしかない。 

2009年9月27日 (日)

カブでお遍路21 Pilgrimage to 88 temples on Shikoku island by Honda super cub

カブでお遍路
今回のお遍路は今治市周辺になった。前回は酷暑のなか松山市界隈の寺を回った。暑さはその時ほどではないものの、日中はライダースウエアを脱いでシャツ姿で走ることになってしまった。今までのお遍路では往復とも宇野と高松を結ぶフェリーを利用していた。もはや死語となりかけた感のある宇高連絡船だ。しかし今回だけは違うルートを取った。しまなみ海道である。次回からもこのルートを使うことは無さそうだから、長いお遍路の中でも唯一の選択となる。

 実はこのルート、8年ほど前に渡ったことがある。当時の写真をひっぱり出してみると、カブのリヤサスペンションがノーマルのままだから新車に近い頃だったということがわかる。その頃はまだお遍路を開始していなかったので、今治、高松間をひたすら走って帰ってきただけだった。こうしてみると目的のある旅はいい。こんなにも濃い旅ができるのかと改めて思ってしまう。

 出発は6時半。国道2号線をひたすら西へ尾道まで走らなければいけない。高梁川を渡ってからしばらくは路側帯の幅が狭く危険だ。高架部分なので逃げようがないので、速度の速いトラック等に追い上げられる格好になるとヒヤッとする。この部分ともうひとつ丸亀、高松間を考えただけでもKSR2を選択したくなる。しかしそれでは「カブでお遍路」という大前提が成り立たなくなってしまう。これを4輪車にたとえれば、ポルシェとヴィッツを所有しているひとがヴィッツで高速走行させられるようなものだ。まあしかしここは我慢しよう。長時間乗って楽なのはカブのほうなのだからと自分を納得させるしかない。

 2号線を走っていると尾道の手前で自然にしまなみ海道に入っていく。前回はこれを入ってしまってひどい目にあった。なんだか車の流れがいやに速くなったなと思っていると前方に料金所が現れた。「誤進入、誤進入」と連呼する係員に「ちゃんと原付進入禁止と大きく書いておけ」と抗議すると「そこの広島県警高速隊の詰め所に行ってくれ」という返事が返ってきた。客を客とも思わない発言に腹が立ったが、状況からして逃げたが勝ちと踏んで下の道へ降りた。だいたい高速道路のあちこちに警察の運用するNシステムを張り巡らせてお客さんの顔写真と車のナンバーを撮りまくることを許している道路会社である。そんな失礼なことをするのなら各入り口に「お客様の顔写真を無断で撮りますが、よろしかったらお入りください」と書いておくべきではなかろうか。

 それはさておき今回は分岐点できちんと降りられた。一度尾道市内へ入り、向島へ渡る。そこから因島へ渡るしまなみ海道の側道へ進入するというややこしい手続きが要るのだ。ここからは大三島、生口島、伯方島等の島々を渡っていくのだが、側道を走る原付バイク、自転車、歩行者は島ごとに下の道に降りなければいけない。これが意外とやっかいなうえに次の入り口がなかなか見つからない。すべての橋を渡って四国へ行くような馬鹿者はいないだろうとの前提に立っているようだ。それはそうだろう。こんな巨大プロジェクトを考え出す旧建設省の高級官僚はいつも運転手つきのクラウンでどこへでもお出かけだから。

連休が開けた日だったのでまだそのなごりの自転車ツアー客が大勢走っている。原付バイク用の道は狭い。地元のひとの利用が多いが、なかには私のようなツーリング派もいる。最後にして最長の来島海峡大橋で釣竿を斜めに背負った釣り人に追いついた時には困った。抜こうに抜けない。このしまなみ海道最長の橋をずっとこのオヤジの後をついて走っていくのかと思うと嫌になってホーンを鳴らしてどけてもらった。

今治の街なかで少々道を間違えたので54番よりも先に55番南光坊に着いてしまった。この寺は大三島の大山祇神社に付属した寺だった経緯があり、88ケ所の中で唯一名前に寺が付いていない。江戸中期の古地図にも別宮と書かれているだけだ。逆打ちになるが北上して延命寺をめざす。さてこのあたりでいい時間になってきたので昼食を取らないといけないと思いながら走っていると道沿いに長崎チャンポンの看板が現れた。好物を見逃す手はないので、お昼はここと決めた。なにを隠そう私はこの魚介類が入った麺には眼がないほうで、東京で暮らしていた頃は有楽町の交通会館地下の店まで時折食べに行っていたほどだ。この今治の店はもう少し具だくさんであればよかったが、そこそこの味はだしていた。このたび回った寺は特に印象に残るものは無かったが、仙遊寺からの眺めはよかったとだけ記しておこう。標高300mの山の上からは瀬戸内海に浮かぶ島まで見えた。

 さて今回のお遍路にはもうひとつの目的があった。それは松山市のバイクハウスアベというサイドカーメーカーを訪ねるというものである。国内には数多くのサイドカーメーカーが存在するが、そのなかでもアベの技術力は抜きん出ている。特にフロントサスペンションのハブステア化に見せる技には私は以前から注目している。サイドカーというものはフロントをハブステア化するとその操縦性はグンとよくなるものらしい。らしいというのはわたし自身にそれほどサイドカーの運転の経験がないからなのだが。ハブステアまで行かないもののアベ製のアールズフォークの付いたサイドカーに乗っている友人も「ほとんど体重移動も要らない。ハンドルを切ったら曲がっていく」と証言している。

 山越えルートにしようか、それとも海岸線を行こうかと迷ったが、結局山越えで行くことに決めた。途中で警察の検問にかかったりはしたが、一時間もかからないうちに道後に着いてしまった。目指すバイクハウスアベは観光港の近くにあるらしいので、市の北部の並木道を西進する。このあたりは勘だけが頼りだ。40年近く全国を放浪していライダーにナビは必要ないのである。途中アイスコーヒーが飲みたくなったのと地図を確認するために喫茶店に入った。市電通りとの交差点に駐車場付きの喫茶店。こんな贅沢なことができるのは土地の所有者以外には考えられない。案の定、二階にあるその店の家具は重厚なムク材だった。オーナーと思しき中年の女性は私一人のためにビートルズをかけてくれた。

 バイクハウスアベは想像していたよりは広い店だった。連休明けのせいか広大な工場は閑散としている。一人がフレームの組み立てか何かの作業をしているが、遠くてわからない。駐車場には昨年の走行会で見かけたサイドカーやハーレーが数台展示してある。ショップのほうに回ってみた。やはりハーレーグッズやウエア類が沢山展示してある。どうやらこの店の経営を底支えしているのは最近販売好調なハーレーであるらしいことが分ってきた。喫茶コーナーまであって、店主はお客さんと歓談中あるいは取引業者と商談中だった。女性スタッフに声をかけられたが、とりたてて買うものもないので返事に困った。カブのような小排気量車に役立ちそうなものは何も無いし、ハーレーグッズにはさらさら興味は無い。ハーレーに偏見は無いが日本の風土には似合わない気がする。なんだかブッシュの前でプレスリーの物まねをしたどこか極東の島国の首相と同じ志向性を嗅ぎ取ってしまうのだ。カブで岡山からわざわざ来たんだぞと言っても通じる相手ではなさそうなので、そそくさと店を出て、またカブにまたがった。私とカブでの旅はいつもこうだ。ほとんど旅先での会話は無い。好んで孤独を求めているわけではないが、出会いを期待しているのでもないのだ。

 

 

2009年9月14日 (月)

勝山の御前酒辻本店前で

勝山の御前酒久保本店前で
ココログの不具合のため、写真と文章が同時に入りません。悪しからず。

2009年8月30日 (日)

KSRⅡで県北へ

いつもお遍路に使っているカブばかりに乗っていると、たまにはブッ飛ばしたくなる。そういう時には納屋の中でカブより奥に眠っているカワサキKSR2を引っ張りだす。今日はオヤジ向けの地元誌オセラに載っていた新庄村のがいせん桜通りを見に行くことに決めた。

 KSR2は絶滅危惧種の2サイクルエンジンを搭載した小型バイクである。ちょっと見にはそのへんのお買い物バイクと変わらないのだが、不用意にアクセルを捻ると大変、たちまち棹立ち状態になってしまうという力持ちだ。信号グランプリでは1000cc級をカモれる。しかし今回は燃費テストも兼ねているので、あまりアクセルを開けないつもりだ。同じバイクを持っているひとが蒜山往復でリッター30kmまで伸びたというのを聞いたからである。さて私の乗り方でどこまで伸びるだろうか。

出発が遅くなってしまったので、まずは腹ごしらえから。53号線で山陽自動車道の下をくぐってしばらく走ると左手に「鳴子屋」の看板が見えてくる。冷やしうどんの大を注文したが、これは失敗だった。そのあとバイクで走行すると、胃の中の未消化のうどんが重荷になってくる。今度からはもう少し軽いものにしよう。53号を北上、川口の分岐で左に取り、旭川沿いに落合をめざす。

 KSR2に乗るたびに感じる。タンクを脚で挟めるということがいかに二輪車の操作に重要なファクターであるかを。私はこれまで20数年間脚で挟めないバイクに乗ってきた。スクーターに17年、そのあとはカブだ。この手のバイクでコーナーを曲がるのは一種のコツが要る。膝でガソリンタンクをひっかけて倒し込めないので、回転方向の内側のステップに乗せた足に力をかけるかハンドルを押さえ込むしかない。オートマチックのスクーターの場合はもっと悲惨で、コーナーでギヤを選べない。車におまかせでコーナーに突っ込んでいくしかないのである。その点KSR2は素晴らしい。次のコーナーは3速で回ろうと思えば3速にシフトダウン、グイッと倒しこむことができる。

以前この道を走っていた時に白バイとすれ違ったことがある。その白バイ隊員は女性だったのが一瞬見てとれた。悪い癖だとは思うのだが、白バイを見るとちょいとからかってやりたくなる。若い頃に東京の青梅街道で速度違反になるスピードで走っている白バイ隊の後を追い上げてやった時は面白かった。停止を命じられたが、向こうには違反キップを切る証拠がないのだからどうしようもない。緊急の場合でもないのに速度違反をしている警察官のほうが悪いに決まっているではないか。

 もしもこの旭川沿いの道で白バイをからかったらどうなるだろうかと考えた。きついコーナーの連続だし道幅も狭い。白バイに使っているCB1300のような巨体には苦手な状況のはずだ。意外にKSR2だと逃げきれるのではないかと。車体も軽いし、2サイクルだからコーナーからの立ち上がりも速い。でもそれは一瞬の甘い夢で、練習量が違うし、直線で追い抜かれてしまうだろうと考えなおした。しかしそれもどうだろうか、最近出てきたピアッジョ製の三輪車だったら。あれはまず転ばないのだから。常識では考えられないくらいのスピードでコーナーに突っ込んでいけるらしい。ピアッジョのサイトの動画を見て驚いた。あの鈍重そうな見かけとは裏腹に、同じ排気量の二輪車よりも速いのだ。

白バイをからかう話をしておきながら矛盾するようだが、この三輪車を白バイとして採用してはどうかと私は考えている。白バイ隊員の勤務はかなりハードだ。昨年だったか、岡山県でも暴走行為をしている二人乗りのバイクを追跡していた白バイ隊員がトラックにはねられて死亡している。警察幹部はあまりにも追跡、検挙ということに捉われすぎてはいないだろうか。私はこういった古臭い交通取締りに以前から疑問を持っている。少しでもスピードが出るマシンで追いかけて検挙する。それもいいだろうが、隊員の安全を考えるなら、より安定した走行のできるマシンへの移行も考慮すべきではないだろうか。そして無線等の近代装備を活用して深追いをしないことが肝要だ。市民の安全を守るためには何をなすべきかという目標を見失って、取締りの成績をあげることが自己目的化しているとしか思えない。白バイ隊員にサーカスまがいの訓練を課す愚は早く改めなくてはならない。転倒の危険性がほとんど無く、ブレーキが4輪車なみに効く三輪車の導入を考慮すべきと提案したい。

 旭川沿いの道を抜けると落合だ。大型店の立ち並ぶ道を北上すると勝山に出る。ここに来ると御前酒の久保本店には必ず立ち寄る。生憎、連休の後の代休で西蔵のレストランと喫茶は閉まっていたが、酒は買えた。いつも思うのだが、ここで買うとワンランク上の酒が壜の中に入っているようだ。気のせいだろうか。時ならぬ焼酎ブームのせいで日本酒メーカーはどこも大変のようだが、岡山の地酒にも頑張ってもらいたいものだ。

 で、目的地の新庄村のがいせん桜通りはどうだったかというと、ただの昔の街道町のなごりが残った通りだった。昔は賑わったのだろうが、街道の両側は商店だったはずだが、今はすっかり寂れて、ひとが住むだけになっている。こういう光景を見るたびに高度成長とか流通革命という言葉が空々しく思えてくる。ひとつスーパーマーケットが出来るたびに百軒の個人商店が潰れ、山奥の集落でもコーラやウーロン茶が飲まれるようになる。田舎のおやじ達の趣味がゴルフだというのだから、開いた口がふさがらない。画一化した社会。文明の害毒をタレ流すテレビ等のメディアをなんとかしなければならない。そんなことを考えながら、旭川沿いに帰った。

2009年8月 7日 (金)

カブでお遍路20 Pilgrimage to 88 temples on Shikoku island by Honda Super Cub

 What happened on this ferryboat. Vacant traffic parking space! Is this a bad influence of reducing of highway passage toll?

ひさびさにお遍路を再開した。カブのチェーン張りやら天候不順やらで延びのびになっていたのだ。例によって5時起きの6時出発をめざすが、手際の悪さもあって実際の出発は7時近くになってしまった。宇野港までひと走り、8時40分発のフェリーにすべりこむ。それにしてもこの駐車スペースのガラガラさ加減はなんだ。これではフェリー会社は存亡の危機だろう。

 今回も雨対策だけは怠りない。雨合羽は言うに及ばず、ゴム長靴まで積み込んだ。今回は松山市周辺の八ケ寺をまわらないといけない。次回は今治周辺なので、ひとつでも残ると大変なのだ。チェーンを新品に交換して出てきたので走りが気持ちいい。

 バイクの走行距離が伸びるとチェーンも伸びてくる。伸びきったチェーンがどうなるかというとこれがやっかいで、ホイールバランスの不良等に影響されて硬い部分と軟らかい部分が出来てくる。普通のバイクにはチェーンケースは付いていないのだが、カブには付いていて、チェーンがそれに擦れてジャラジャラという音をたてるようになる。このたびチェーンを換えたことによってどういう影響が出ただろうか。チェーンのジャラジャラいう音が消えたことはもちろんだが、バイクの挙動がリニアになった気がする。おおげさに言えばアクセルと後輪がつながったような感覚。

 最近はドライブチェーンの代わりにゴムベルトを使うバイクも増えている。BMWやハーレーがその代表だ。このゴムベルトは内部にNASAで開発されたケブラー繊維を編みこんであるので殆ど伸びない。チェーンのようにジャラジャラ音はしないし、いいことずくめなのだがひとつだけ欠点がある。それは価格が高いということだ。一本6万円ほどする。これでは一般庶民用のカブには採用されないわけだ。

 新居浜のマックで休憩した。暑くてたまらないし、ここいらあたりでお腹に何かいれておかないといけないと思ったからだ。この店には前回も立ち寄っている。コーヒー屋の主人がマックで昼食というのはなんとも奇矯な行動のようだが、私にとってはごく自然なのだ。究極に削ぎ落とした旅にマックはふさわしいし、コーヒーもそこそこ飲める。ええっ、マックのコーヒーが?という声が聞こえてきそうだが、それは先入観にとらわれすぎている。首都圏でドトールと死闘をくりひろげている店のコーヒーがまずかろうはずはないではないか。もうひとつ言わせてもらえば、私はコーヒーの味ではモスバーガーへ行かない。ハンバーガーそのものの味はマックよりは上を行くと思うが、いかんせんコーヒーがエスプレッソなのだ。スタバの追撃があるにも拘らずマックがペーパーフィルターを捨てないのはひとつの見識として私は評価している。

 46番浄瑠璃寺に着いたのは午後1時半だった。これから八ケ寺を回らないといけないのだが、時間は大丈夫なのだろうかと少々不安になってくるが、始めた以上しかたがない。この寺には立派な蓮池があったので蓮の花の写真を撮らせてもらった。池の上に浮かぶようなお宮さんも有ったのだが、これは確か後に回った石出寺にも有ったはずだ。なにかこの地方特有の民間信仰と関係しているのだろうかと気になった。

 今回の遍路中の白眉はなんと言っても石出寺だろう。道後温泉に隣接するという好立地のうえに八十八ケ所のなかでも名刹として知られる寺なのだ。だが私が評価するのはそういった所謂下世話の意味からではない。ここの現住職が反戦平和の活動家なのである。石出寺はこの地方のお大師信仰の中心地であり、江戸時代には数十もの末寺を擁していた。土産物屋の並ぶ参道を通って境内に入ると立看板だらけ。「イラクでの戦闘をやめよ」とか「四川省大地震に義捐金を」とか。和尚自身が地震の被災地に出かけたり、松山市内で反戦を呼びかけて座り込みをしたりするらしい。

 普通こんなリッチな寺の和尚はこういった活動はしない。寺の経営に忙殺されて。「ロータリークラブで忙しくて」という和尚もいるだろう。そういう意味でもこの石出寺の住職の生きかたのは共感を覚えた。寺として本来なすべきことをやっている。それも自然に。様々な活動を綴ったパンフレットを集めていると和尚と眼が合った。ヘルメットを脱いだこちらの頭を見て、同業者とまちがえたのかもしれない。もともと私は僧職と思われることが多い。比叡山でもそうだったし、出雲のある寺でお庭を拝見していたら、お茶とお菓子が出てきた。否定してもその寺の住職は「隠されても判ります」と言う。

 朝日新聞で興味深い記事を読んだことを思い出した。高野山金剛峰寺の座主に記者が映画「おくりびと」を見ての感想を聞いた記事だった。さすがに座主ともなると我々常人が同じ映画を見て抱くのとはまったく違う感想を述べていらっしゃった。葬式の主役は坊主で、その坊主が死者を「あの世」の送り出して成仏させているのに、あの映画では、本来脇役であるはずの納棺師にスポットライトが当たっている。しかもそれが若い世代に共感を持って受け入れられている。座主はこうしたことにおおいに衝撃を受けたとおっしゃるのだ。葬式宗教に成り果てているという世間からの冷たい眼もあるなかで、その葬式の場でももはや主役たり得ないのかという悲しさまで感じたと。

 さらに座主は最近ヒットした「千の風になって」という歌にも言及なさっている。歌詞のなかで、死んだ人の魂までが消滅したわけではない、私達のまわりを飛び回っているんだという内容に異議を唱えられている。これは明らかに迷信に属するもので、仏教の考え方に反している。死者の魂が空を飛び回っているのでは、何のために弔ったのか、また成仏させたのかわからないではないかとも。

 こういった俗信がはびこる風潮の根底には世間一般の坊主の活動不足や佛教界全体の教化活動への怠慢があるはずなので、おおいに反省しなければならないと座主はおっしゃっている。私はこのインタビュー記事を読んだ時、いささか衝撃を受けた。座主に指摘されるまであの映画を「面白い視点から葬式を撮ったな」くらいに好感を持って捉えていた自分が恥ずかしくなった。カルトとか迷信にはそれなりに警戒心を持っていたはずの自分もまた、知らず知らずのうちに毒されていたわけだ。

 石出寺は私にとって再訪しなければならない寺になってしまった。

 

 

2009年7月15日 (水)

LOVE CUB 50

京都、岡崎公園内のみやこめっせで開催中のLOVE CUB 50という催しの会場へカブで乗りつけたらおもしろいだろうと思った。この催しは自動車や趣味に関する書籍を多数出版、販売しているネコ パブリッシングが主催しているもので、東京会場に続いて京都でもこの11日から開かれているものだ。ホンダのスーパーカブが誕生して50年になるのを記念するイベントで、各界の名士が独自にペイントをほどこしたり、改造したカブが50台されているのだそうだ。

 この会場へカブで乗りつけたら、遠くからようこそというわけで何かいいことがありそうな気もした。例えば記念品を貰えるとかカーマガジン誌に写真が掲載されるとか。行こうか行くまいか、直前まで悩んでいたのだが今回は中止した。それを後押ししたのは前日から日本全土を襲った強烈な暑さだった。しかしそれ以外にも理由はあって、カブの不調もそのひとつだった。ドライブチェーンが伸びきっていたのだ。

 このところ走行中に異音が発生していた。それは明らかにチェーンとチェーンカバーが擦れる音だった。もう調整代が無いほどに伸びきっていたのだ。これを直してからでないと安心して遠出はできない。二輪車のドライブチェーンは走行距離がかさむと、それにつれて伸びてくる。そのうえホイールバランスなどの影響で硬いところと軟らかいところが出来てくるからやっかいだ。軟らかい部分にあわせてチェーンを張れば、硬い部分では張りすぎることになる。

 工具が足らないことに気づいてバイク屋さんにやってもらったのだが、治ってきたカブに乗ってみて驚いた。新車の感覚が甦っていたのだ。アクセル開度に応じたスピードの乗り具合がリニアになっている。この日はバイクの修理に専念。カワサキKSRも錆びたままだったハンドルの再塗装をした。

2009年5月26日 (火)

カブでお遍路19

カブでお遍路19
遍路全行程中の難所中の難所、岩屋寺へ。写真は途中の黒森峠(標高985m)にて。

2ケ月振りのお遍路再開である。前回は3月17日。44番の大宝寺からは近かったのに岩屋寺には到達できなかった。再度の挑戦は出発7時。前回ほど遠くへ行くわけではないからと7時にしたが、これが結果的には遅すぎて、行った先で行動に余裕がなくなってしまった。四国フェリーは出港間際でタイミングよく乗れた。往復で1900円、安い。

国道11号を快調に飛ばすが、途中休憩も兼ねてマックに寄った。店内はガラガラで、ひとりだけパソコンを打っている中年の男がいた。以前はそんな光景を見ると、何もこんなところでパソコンなどしなくてもと思ったものだが、自分自身がそういった環境を手に入れてしまうと、余裕を持って見ることができるのは不思議だ。マックは全店が無線LANを設備している。こういったところにも全国チェーンのすごさを感じてしまう。流行るお店を作るのには投資を惜しまないし、高感度の人種を集めようとしているのだ。私自身は今回ネットブックを持参してきていないので携帯で梅錦山川酒造に電話する。愛媛県に入ったら是非立ち寄りたいところだった。しかし電話の内容では以前やっていた地ビールも含めたショップを閉じているようなので、立ち寄るのはやめた。

 桜三里を越えて左折、国道494号線へと入る。名にしおう三桁国道の始まりである。地図で見てもその曲がりかたは尋常ではない。最初こそ集落はあったが、すぐに途絶えて、ひたすら山の中で高度を稼ぐ。ついに頂上まで来たが、ここまで一台の車ともすれちがっていない。なんという過疎地帯であろうか。600mくらいはあがったかとは思ったが、黒森峠985mという標識があるではないか。カブの後ろに積んだ三脚を降ろして記念撮影の準備をする。いきなりコーナーからフェラーリが現れてカメラを倒したりする可能性はないから、道の真ん中に堂々と立てる。

 撮影完了。カメラをしまって再び出発。下りにかかる。不思議なことに山の南側には人家がまばらに点在しはじめた。小さいながらも水田も見られる。一軒だけ別荘と思しき建物もあった。やはり日当たりや気候のせいだろうか、北斜面に人が住んでいないのは。ぐんぐん下へ降りていく。小さな町の交差点を右折して川沿いに走ると岩屋寺の下に着いた。

2009年4月22日 (水)

サイドカー

サイドカー
30年前のサイドカーツーリングを再現する旅をした。今回はBMW製のオートバイにバイクハウス阿部のカーを付けたもので行った。ドライバーは30年前と同じK君。今や希少な存在になったブルートレインで上京した私はそのまま中央線に乗り換え吉祥寺へ。K君のサイドカーに乗りこんだ。目的地は国産ワインの最高峰と衆目の一致するルバイヤートワイン丸藤葡萄酒工業所である。
井の頭公園駅前から住宅街の中を抜けて甲州街道へ向かうが、周囲の景色のあまりの変貌ぶりに、今いったいどこを走っているのやら皆目見当がつかないありさまだ。k君が走りながら解説してくれるのだが、それでも追いつかない。国立府中インターから中央高速に入り、C君のキャンピングカーとの待ち合わせ場所の石川PAへと向かう。
PAは既に満パイ状態だが、なんとか空きスペースを見つけて駐車する。二人とも朝食がまだなので、ドトールコーヒーでコーヒーとパンを注文する。C君のT-4はすぐに姿を現した。T-4はトヨタのハイエースをもう少し背を高くし、全長を伸ばしたような姿をしている車である。その巨大な図体に2500ccのガソリンエンジンを搭載しているだけなので、俊敏な動きは望めない。ここから先はサイドカーが先行し、T-4がそれを追いかける形で行くことにした。T-4を従えているのでサイドカーはおとなしめの運転だが、BMWの水平.並列4気筒1000ccのエンジンはトルク感たっぷりの回り方をしている。ABEZのサイドカーは剛性感に溢れ、ほとんど体重移動もなしで方向を変えることが出来ているようだ。フロントのアールズフォーク化も効いているのだろうが。霧雨程度の雨は降っているのだが、カーに乗り込んだ私に雨はかからない。フロントスクリーンに雨滴が付くだけだ。

およそ一時間で勝沼ICに着いた。甲州街道に降り、甲府方向へ5分ほど走ったところにある藤井の交差点を左折するともうそこが丸藤葡萄酒工業所、ルバイヤートワインである。1890年創業の国内最古参のワイナリーで、昔から押しも押されもしない地位を保っているルバイヤートだが、このところ評価がまた鰻登りにあがっている。'04年の雑誌DANCHUでシュールリーが人気投票第一位。日経新聞土曜版でもランキング上位に3本も顔を出すという快挙を成し遂げている。試飲室に通され、3人でしばらくしゃべっていると社長の大村春雄さんが現れた。「11時だって言うから、用事で出かけてたんだよ」と弁解する。どうやら我々の到着が早すぎたようだ。「ちょうどいい。午後にイタリア人の訪問がある予定で、とっておきの奴があるから飲んでみてよ」とおっしゃる。本当にいいタイミングで来たようだ。マイナーな品種の樹から作られたそのワインは独特の香りがした。

 私は一部のワイン愛好家のように香りや味をワイン以外のものにたとえるような批評は好まない。「早朝の森林の朝露に濡れたブナの木の香り」といった俄か詩人のようなひともいれば、「セメダインの匂い」と言ったりする即物主義者もいる。都会にはワインの鑑定家をめざすひとのための学校まであるのだそうだ。そいいったところを何箇所か渉り歩いたひとの話によると、その手の学校の実地研修の進めかたというのは以下のようだそうである。講師とともに生徒もワインをグラスに注いでもらい、味見ののちノートに各人の評価や感想を書き付ける。すると講師がやおら立ち上がって「皆さーん。チョコレートの匂いが感じられませんか。かすかに黒胡椒の香りもしますね」と叫ぶのだそうである。そうやって次第に講師の批評の枠に嵌めていく。これはファッショ以外の何ものでもないではないか。そのひとはどこの学校へ行ってもそのやりかたなのに辟易して、もうワイン学校とやらの門をくぐるのはやめにしたのだという。

 お昼の時間も迫ってきているので、そうゆっくりもしていられない。ワインを購入して辞すことにした。3人それぞれが気に入ったものを買ってサイドカーとT-4に積み込む。私の分だけは宅急便で送ってもらうことにした。「ランチはあそこがいいんじゃないの」と大村さんもおすすめの一軒屋のレストランを目指したが、定休日で閉まっている。急遽行き先を丘の上の展望レストランに変更。ここは近郊で生産されるワインの品揃えが多い。1階がその売り場になっており、2階がレストランだ。甲府盆地が見渡せる素晴らしいロケーションだ。昔のツーリングの思い出話などをしながら食事した。

 帰りはT-4に乗せてもらう。鈍重そうに見えるT-4が高速道路の中では意外にキビキビ走るのに驚く。さすがドイツ生まれだ。遅い車を追い越し車線で軽々と抜いてゆく。T-4の高い視点から見るとK君のサイドカーの運転の様子がよく判る。まだ小雨の降り続いている石川PAに一旦入り、私は再びサイドカーへ乗り換えた。T-4のC君はそのまま都心方面へ。我々のサイドカーは国立府中ICで降り、昔のバイク仲間のキムコこと木村君の経営するジムカーナ専門店へ向かった。

 「味覚はその人の歴史、あるいは記憶そのものである」と言ったのが包丁人味平だったかブリヤ=サヴァランだったかもう忘れてしまった。続く

2009年3月26日 (木)

カブでお遍路18

カブでお遍路
明日しかない、と思った。全国的に晴れとの予報が出ている明日を逃したら、また前回のように悪天候に見舞われるに決まっている。前回は一週間延ばしたために酷い目に遭った。今回のお遍路の主目的は前回の最後に打ち損ねた明石寺まで行くことだ。大洲の先の明石寺まで行こうと思ったら、5時には出発しなければいけないだろうと予測した。
まだ暗い産業道路を南下している時、「玉野トンネル不通」の電光サインが頭上にチラリと見えた。年度末恒例の工事かなにかだろうと早呑み込みをして迂回したのが失敗だった。これで20分は時間を浪費しただろう、港に着くと眼の前でフェリーが出ていった。 次の便までは30分待たされるのでモギリの係員と話をする。あの電光サインは本当だったのかと訊いたら、「あれは20、21日でまだ先だ」という答えが返ってきた。親切にも国土交通省だか工事業者だかがフェリーの事務所へ配布してきた案内のビラを見せてくれる。やられた。このあたりが二輪の限界だ。じっくり電光サインを見る余裕などないのである。
 高松、坂出間では白バイのおかげでまた時間を喰わされた。高松市内の11号線で、私の100m程先に白バイ2台がスッと合流するのが見えた。まさかカブで白バイを追い抜くわけにもいかず、ずっと遵法運転を強いられるはめになった。その間30分、距離にしたら20km程だったろうか。こういった前近代的な交通取り締まりに出会うたびに私は暗澹たる思いにとらわれる。普段の整然とした幹線道路の流れの中に分け入って、10km/h低いスピードで流して何が取り締まりだろうか。それを抜くわけにもいかず、唯々諾々とくっついていく周囲の車も車だ。羊の群れの中に狼が一匹まぎれこんだ状態といったらいいだろうか。つくづくこの国では革命はおこらないなと思う。
 高松、坂出間の11号線は高速道路と見まごうばかりの道である。片側3車線の道路に普段は70km/hの車の流れが出来ているのを警察が知らないわけがないだろう。このような真の交通安全に繋がらない類の警察や道路管理者による規制の例は枚挙に暇がない。物陰にコソコソ隠れてやるスピード取り締まりは言うに及ばない。高速道路の総延長の大部分が80km/h規制の国など他にあるだろうか。中国自動車道の新見、庄原間には常時50km/h規制の区間があるが、殆どの車は80km/h以上の速度で走行している。そもそも道路というものが人間の経済活動を支えるために作られているのだということを取り締まり側は認識していない。自動車の性能が加速、制動、安定性とすべての面で進化しているのに、50年前の規制が今だにまかり通っているこの国は世界一の不思議国だと言えるのではないか。
 暖かい。11月に走った時とは大違いで、同じ道とはとても思えない。Tシャツで歩いている遍路もいる。前回はみぞれや雨にやられて、とうとう最後の明石寺をはずしてしまった。その後遺症で往復80km
を余計に走らなければいけないはめに陥ってしまったわけである。いや、こと遍路に限っては余計とか無駄とかいうことはないはずで、これも修行だと心得るべきなのだろう。
 明石寺では水屋の手水鉢が妙に印象に残った。龍の口から水が吐き出されている。側面にも龍の彫り物。今どきの機械彫りとは違って力感に溢れているではないか。確か昭和30年代に奉納されたものだったはずだが、この頃にはまだ、これくらい掘れる石屋が地方にも居たということだろう。
 駐車場の一隅に設けられた売店で梵字のステッカーと饅頭を買う。カブの後部キャリヤに積んだ青いプラスチック製の箱に何らか遍路中であることを示すステッカーを貼ろうと思い、各地の寺付属の売店で探してみるのだが、それらしき物は見当たらない。南無金剛偏照とか同行二人とか、あってもよさそうではないか。考えてみれば千社札禁止の寺が多いから、こういった物を販売して、それを寺の建物に貼られてはたまらないということかも知れない。
既に一時を過ぎているが、ここまで昼食を取っていないのを思い出した。どこかで食べないといけないが、この度は「大介うどん」に決めた。この地方を走ると、あちこちでこの店の看板を見かける。独特の太い字で店名を書いただけのもので、その看板からは店のスタイルやメニュー構成とかはまったく想像できない。こうまでされると「来たい者だけ食べに来い」と言っているようで、余計に店側の自信を感じてしまう。内子町あたりのロードサイドにそのチェーンの一店を見つけたのでカブを停めてみた。店内に入ってすぐ、その自信を裏づけるものを発見した。要は何玉食べても料金がいっしょなのだ。

入り口近くに比較的小さめのうどんの玉がお茶碗に入ってならんでいる。私の前に並んでいるご夫婦の御主人のほうは4玉。私は2玉取ったのだが、奥さんに笑われてしまった。「上品ねえ。私でも3玉なのに」と。この地方独特のじゃこ天も取って、かなり遅い昼食となった。食べながら考えたのだが、4玉も取ってしまうと汁がほとんど入らないのではないだろうか。敵もさるもの、損はしないように考えてある。食べながら地図をひっぱり出して、帰路をどう取るか考えてみた。43番だけ打って帰るのはあまりにも惜しい。少し時間はかかっても44番、出来れば45番まで回りたい。まだ2時台だし、なんとかなるだろうと読んだ。

 内子町から川沿いに山奥へ入っていく。明石寺の駐車場ですれちがったビッグバイクとすれちがう。あのひとは既に44番からの帰りなのだろうかと、ふと考えた。それにしては早い。あるいは道に迷って引き返すところなのかと次第に疑心暗鬼になってくる。

 いくつかの分岐点を通過して、異様に速い軽のワンボックスに追いついた。所謂ジモティーというやつだろう。運転者は女性だが、あらゆるカーブのR(半径)を知り尽しているかのようにノーブレーキで突っ込んでいく。カブでそれを追尾するのは簡単なのでペースメーカーにすることにした。それにしてもいまどきの軽のオートマチックはよく出来ている。しだいしだいに高度を稼いでいるのが分かる。 30分程の追っかけゲームの末に久万高原に着いた。このルートでこの町に来ると、こんな山の中に大きな町があるのが不思議な感じがした。ということは、歩きの本格派以外、殆どの遍路は逆打ち、すなわち47番方向から来るのではないだろうか。

 お遍路を始めてから1年半かけてやっと半分の44番まで来た。本来なら感無量でむせび泣きでもしないといけないところだろうが、バイクで風のなかを突っ走ってきたせいだろうかそんな感情は不思議と湧いてこない。オートバイや車で回って何が遍路だ、遍路は歩きに決まっているという意見もあるだろう。しかし私はそんなことには拘っていない。あるがままを肯定して生きよ、というのが空海の説いたところでもある。その時代その時代の交通手段に頼ったところで、お遍路をしたいという衝動にいささかの違いもないはずだ。

ここで私がいう衝動とは信仰心というようなものではない。お大師様の力におすがりするひとが常に何万人も四国を周っているとしたら、お大師様も疲れてしまうだろう。だから私は今まで形式めいたことは一切してこなかった。白装束に身を固めるわけでもなく、所謂納経ということもしていない。空海が四国の山中や海岸で修行したことは事実だが、すべての寺が空海を開祖とするわけでもない。八十八ケ所巡りというのも後世の人為が加わっていることは否めない。

 さまざまな思いを持ったひとが四国を周っている。半周してみて、今までさまざまな遍路に出会った。しかし遍路どうしがその目的を訊いたりはしない。そんなルールがあるわけではないのだろうが、自然にそういった話題を避けるようになっている自分に気づく。ある意味そんなことはどうでもよくなってくるのだ。自分を見つめる旅だろう。それが千年を越えてなお続いているところにすごさを感じる。

大宝寺を出て松山市へ向かう国道33号線土佐街道を北上する。三坂峠からの下りには舌を巻いた。突然断崖絶壁のような光景が出現し、眼下に松山市が遠望される。こんなにも高いところに上がってきていたんだとはじめて実感した。

 昔は交通の難所として知られ、松山に出入りする人や車を苦しめた桜三里も無事通過し、あとは淡々と高松港へ向けて11号線を走るだけだ。だが帰路上でこれだけは言っておかなければいけない問題点を発見してしまった。それは愛媛県東部海岸地域の交通の問題だ。ちょうど通勤時間帯に西条、新居浜、伊予三島、川之江と通過して帰ってきたのだが、これらの都市の交通の渋滞はひどい。急峻な山岳が屏風のように南側に屹立している為、平野部が狭く、回廊のように狭い平野部を人も物も東西に移動している。

 こうした場合、国道11号線のバイパスを建設することが国や県に課せられた急務であるはずだが、あろうことか彼らはあの悪名高い道路公団(当時)と組んで有料の高速道路を作ってしまったのだ。要は「急ぐ奴は金を払え」という論理であろう。これは地域住民の生活の向上、産業の発展を計るべき役人の責任放棄以外の何物でもない。そしてそのツケはは県民や道路利用者に回される。愛媛県の東部地域ほど役人にコケにされている地域は他にないのではないか。翻って考えてみれば、わが岡山を含む中国地方も並行して2本の高速道路が建設されているという特異な地域だ。今、中国道を走るひとはあまりの寂れように驚くだろう。中国道を作った時点では今ほどのモータリゼーションの発展、あるいは地域経済の伸長は予測していなかったという弁解は言い逃れにすぎない。「まず建設ありき」という採算を度外視した公団や国、県の道路行政のありようが問われているのである。

 

2009年3月10日 (火)

カブで小豆島

カブで小豆島
小豆島で唯一の酒造場、しかも戦後の日本で唯一の新規開業という森国酒造のギャラリー兼カフェの前までやってきたカブ。つぎの火曜日は晴れそうだから久しぶりにお遍路を再会しようと考えていたのだが、出発に手間取って断念した。今回は43番大洲の近くの明石寺が起点となるが、そこまで到達するには5時出発でないと間に合わない。急きょ行き先を変更した結果が小豆島だったというわけだ。オリーブ園で働くMさんにも会いたいし、雑誌BRUTUSの別冊CASAで紹介されていた森国酒造のカフェも気になる。
小豆島は「食」に特化した島だと言っても過言ではないだろう。土庄の港に降り立った時から竹輪を焙ったような匂いがする。醤油、そうめん、佃煮、みかん、オリーブと食べ物関連の産業で成り立つ島だ。同じ瀬戸内で近くにある淡路島が乾電池、線香、瓦の生産で成り立っているのとは大違いである。

2008年12月10日 (水)

カブでお遍路17

カブでお遍路17
宿では歩きのお遍路三人と一緒になった。一人は75才くらいの男性。残る二人は50才代の御夫婦だ。夕飯を共にしながら、一日何キロ歩けるかという話が始まった。75才の方は20kmがいいところだとおっしゃったが、御夫婦のほうは30kmはいけるとおっしゃる。こちらはエンジンつきの乗り物で移動している身なので大きなことは言えないが、日本史上に残る軍隊の高速移動の記録を持ち出してケムに捲いた。歴史上名高い水攻めで清水宗晴を討ち取った豊臣秀吉の軍勢が、近くまで毛利の本隊が迫っていること、さらに織田信長が本能寺の変で倒れたことを知って撤収した際には、一日で赤穂の近辺まで後退している。マラソンでもそうで、抜くときには相手に「とうてい追いつけない」と思わせる程のスピードで抜け、という鉄則がある。でないと、また追いつかれるからだ。一流のマラソン選手が30km地点でスパートをかける時には100mを13秒台で駈けぬけていると聞く。一時間半以上走った時点でなおそのスピードを出せる脚力には仰天するしかない。因に秀吉の軍勢は直線距離でも60kmを、軍隊の装備を持ちながらも駈けぬけたことになる。昔の人は凄かったという話をする訳ではないが、驚異的な脚力なのである。 
部屋に戻ってテレビで明日の天気を確認。愛媛県下全域、雨と強風という予報が出た。素晴らしい。ここまで来た以上、その悪条件を素直に受け入れて、そのまっただ中に突っ込んでいくしかないではないか。翌朝、出発前に岬と金剛福寺へ行った。岬の公園にはジョン万次郎の巨大な銅像が立っていた。ジョン万次郎はこの近くの宇佐の港を出て嵐に遭遇、鳥島に漂着して数カ月を暮らす内、アメリカの捕鯨船に発見されて救助された。彼に関して興味ある事実が書いてある本が最近出版されている。「The great wave -gilded age misfits,japanese eccentrics,and the opening of old Japan」 Christpher Benfey Random House 邦訳も出ている。「白鯨」の著者のメルヴィルがナンタケットの港を出港したのと、ジョン万次郎が宇佐の港を出たのは2日しか違わないとか、大平洋上で二人の乗った船はすれ違っているはずだとか、実に面白い。
 金剛福寺は立派なお寺だった。岬が観光地なのでお参りも多いのだろう。しかしそれよりも感動したのは一帯の山々の原生林の様子だ。人の入り込む余地がないほど繁茂している。まさに手つかずの原生林という奴だ。海の方を眺める人ばかりで、陸地側を観察する人は少ないだろうから、殆どの人は気づかずに帰ってしまうのだろうが。
足摺岬から宇和島までは曇りだったが、龍光寺あたりではついにみぞれ混じりの雨が降りだした。コンビニの駐車場で合羽を着る。前の道路を行き交う車の中からは、「この寒い中を酔狂に」といった憐れみの視線が投げかけられているのだろう。このあたりは懐かしい所だ。1971年にカワサキC2TRというリヤスプロケットを2枚有した奇妙な125ccで走ったことがある。その後にも九州からの帰りに大洲に泊まったことがある。その時はヤマハの名車DT1。ホンダCB500で四国一周をしたのは75年頃。3日間雨に降られっぱなしだったが、大洲の同じ宿に泊まった記憶がある。
 その頃の自分と今の自分を比べてみると、多少歳はとったが、バイクで旅をしているということでは、まったく変わってない。しかし、街道の風情はずいぶんと変わってしまった。通り過ぎる町々を迂回するバイパスが整備されたために、町なかを通るということがない。さまざまな町や村で暮らす人々の暮らしや息吹きといったものに触れることなく車は移動していく。そしてバイパス沿いに連なるのは全国どこにでもあるチェーン店と決まっている。飲食、外食産業ではマクドナルド、モスバーガー、ココス、ジョイフル。スーパーのジャスコ、マルナカ。ホームセンターのダイキ。車関連ではオートバックスといった名前があげられるだろう。その土地その土地の地域に根ざした店は殆ど見当たらない。
 これが文化の破壊以外の何ものであろうか。戦後永らく駐日アメリカ大使を勤めたライシャワー氏が新聞記者に「戦後ずいぶんと日本はアメリカナイズされたと思いますが」と水を向けられて、「アメリカナイズじゃなくてモダナイズと言ってほしい」と答えていたことを思い出す。日本じゅうの伝統文化を破壊しまくってなにがモダナイズだ。自動車で街道を走るたびに悲しくなるのは私だけではあるまい。

2008年12月 4日 (木)

カブでお遍路16

カブでお遍路
ハッ!と気が付くと旧中村市まで来てしまっていた。地図を出して確認してみたら岩本寺のある窪川町は既に通り越して30kmは走っている。もうどうすることも出来ないではないか。須崎を過ぎたあたりからはホンダ.インスパイアと激闘をくりひろげていた。峠の登りでパワーの落ちたところをインスパイアに抜かれた。下りで懸命に追い上げてみると、その車は先行する車3台を強引に抜こうと試みている最中だった。気持ちは分かる。四国の道は軽四天国、そして老人大国なのだ。一台の軽自動車のために後続の車が数珠繋ぎになる様子はたびたび見かける。しかし、そのインスパイアの走りはあまりにも品がないのでカブの名誉にかけて成敗してやる気になったのだ。完勝、しかしその余波で大事な岩本寺を見逃してしまっては元も子も無い。
 お寺の見落としには、いくつかの原因が考えられる。地図を頻繁に確認できない状況だったことも挙げられるが、一番大きなものは市町村合併だろう。そんなことが関係あるのかという向きもあるだろうが、私に言わせればそうなる。中村市という地名は消え、道路の案内板には四万十市という地名しか登場してこないのだ。窪川町は紛らわしい四万十町に変わっている。。いきおい、案内板だけを頼りに走っていると窪川町を通り過ぎてしまうことになる。
 ナビゲーションを持っていないドライバーもいるのだということを考えた道路行政をやってもらいたいものだ。技術の進歩は良いことだが、そういった新技術を導入できていない弱者のことも考えてもらいたい。話が飛躍するようで恐縮だが、食器洗い器が普及してくると、それで洗うことが前提になった食器や調理器具が販売される。こんな窪みをどうやって洗うのかといった具合だ。地上デジタル放送の普及に伴いアナログ放送が停止されるのも、その例だ。こういう弱者切り捨ての論理がまかり通る社会はまちがっている。交通の分野でもナビやETCを所有しない人にも配慮した行政の運営を進めるべきである。
 だがそんなことを言っていてもはじまらない。暗くならないうちに足摺岬に到達しなければいけないのだ。四国の最南端部に入ると景色がだんだんとさみしくなってくる。川沿いの道を走っていたら、漁網の浮きに使う俵型の巨大な発泡スチロールが転がっていて、あやうく乗り上げそうになった。土佐清水市に着いた時には、あたりはもう暗くなりかけていた。地元のコンビニチェーンのスリーエフで焼酎の小瓶とつまみを買う。宿の部屋で地図でも見ながらチビチビやるつもりだ。こんな地の果てのような場所にも人々の暮らしがあって、愛やら憎しみやらが渦巻いているのだろう。ここまで来ればもう着いたようなものだが、足摺岬まではまだ30分半島を南下しないといけない。 続く。

2008年11月18日 (火)

カブでお遍路

カブでお遍路
高松から琴平へ向かう道すがら、高知方向の山並を見遣ると黒ぐろとした雲が覆いかぶさっているのが見えた。さらにその雲の下には縦に帯状の模様があるのが認められた。「やばい、降ってる。」また今年の元旦に大歩危あたりで雪に苦しめられた嫌な記憶が甦ってきた。手足の先は凍りついたように痺れ、ヘルメットのシールドは曇って先が見えない。ツルツル滑る路面で転がらないように細心の注意を払いながら進む。今回はあの時ほど気温が下がっているわけではないから、まず雨だろうが、幸先の悪いスタートになったものだ。
 琴平の手前で既にパラパラと降ってきたので、後ろの荷台に付けた箱から雨具を出して着る。また自慢になるが、カブくらい荷物を積んでさまになるバイクも無いと思う。他のバイクは何か変になる。琴平を過ぎて山道に入ると、雨はついに本格的になってきた。ドシャ降りというやつだ。雨粒がヘルメットに当ってカンカンと音をたてる。私はバイク用の雨合羽は農業用のビニール製の安物に限ると思っている。これを前後さかさまに着て、背中でボタンを留めれば完璧だ。ゴム手袋も外に出し、合羽の袖を中に入れる。すべて普段の逆をすればいいわけである。バイクの場合、水は前から侵入してくるのだから。私は合羽に加えて雨靴、水産業用のゴム手袋まで積んで走っている。
 池田町を過ぎ、大歩危にさしかかったあたりで雨はやっとやんだ。向こうからBMWやドカティの10台ばかりの集団がやってきた。昔のライダーの習慣で、指を2本立ててピースサインを送ってやったが、返しがない。向こうはこちらの雨支度を見て、恐怖心にかられていることだろう。ヒッヒッヒッ、向こうは雨だぜ格別ドカには苦しい行程になるだろう。雨がキャブレターの中に侵入するから。。まったくカブとBMWのすれ違いとは、格差社会を象徴しているではないか。カブが10数台買える値段のバイクに乗るなんて。高速道路に入らない限り、殆ど差がない走りなのに。カブこそがベストツーリングバイクなのを知らないな。ツルんでしか走れない憶病者達を憐れみながら先へ進む。
 大歩危では立ち寄らなければいけない所があった。モンベルショップである。ここで壊れかけた皮の財布に代えてベルクロ留めの布製の財布を買わないといけない。買えないせいもあるが、私は例のLVマークの付いた財布とかには全く興味がない。LVマークの付いた財布からチュー銀のカードがのぞいているよりはアウトドア用の布製財布からブラックカードがのぞいているほうが恰好いいではないか。生憎、私はどちらも持ってはいないが。
 このところモンベルはアウトドアのフィールドに出店する戦術をとっている。わが岡山県に近い大山にも最近店を出したらしい。モンベルとアメリカのパタゴニアはよく比較される。どちらも創業者がアルピニストだというあたりからだろうが、私はモンベルのほうに親しみを感じる。最近のパタゴニアがとっている「環境に配慮しています」といった路線に何か胡散臭さを感じてしまうためだ。ペルーで無農薬で栽培したピーマコットンで作ったシャツですとか、うちは動物虐待につながる素材を使用しておりません、という趣旨はわかるのだが、それが理由になって、あんなに製品が高価になるのはどうも解せない。
 モンベルショップを出て、隣のカフェでコーヒーを飲んで暖まろうと思ったが、開店時刻より早かったので入れなかった。エスプレッソマシンは店に入ったらすぐにスイッチを入れないと立ち上がらないんだよおねえさん。日本は先進国には珍しい100Vの国だからねえ。単相3線式でとっても200Vがせいぜいだ。動力は電気、熱源はガスという住み分けも燃料業界からの圧力としか思えない。
 大歩危を過ぎると雨はやんだが、また降ることも考えられるので合羽は着たまま走ることにした。南国市では前回見つけられずに通り過ごした国分寺をうつ。高知市を通過して、今回の遍路の始まりの35番清滝寺へ。たわわに実ったみかん畑の中をカブはトコトコ登っていく。ここではめづらしいお遍路に出会った。インド人の女性、しかも一人で歩きだ。荷物が少ないから、通しで歩く本格派ではないだろうが、それにしても驚いた。インドといえば仏教発祥の地だから不思議ではないはずなのだが。
 清滝寺の山から降りたところにあったモスバーガーに入り、チーズ入りのバーガーとコーヒーを注文した。雨に降られたうえに寒いとあっては食事の店など選んでいられない。駐車場があって、暖房が効いていれば、どこでもいいという気持ちになってくる。しかし、出て来たトレイを見て驚いた。なんと頼んだものと一緒に水が出て来たのだ。これって土佐方式?と思ってしまった。普通ハンバーガーチェーンでは水は出ない。コーヒーとかの飲料の注文が無くなるからだ。よそのモスバーガーでも水が出て来た試しはない。モスも売り上げ低迷で苦しんでいるようだから、サービスの見直しをしたのかもしれない。
 清滝寺の次は横波三里にある青竜寺である。ここではバイクで2年間放浪、日本一周を果たしたあと今度はお遍路に目標を定めて、通しでうっている奈良の青年に会った。まさに筋金入り、放浪の人生もここまで来ると本物だ。日焼けしたさわやかな笑顔が印象的な人だった。かれの放浪ぶりはERIPPEという長崎在住の女性のブログで紹介されている。興味のある人はERIPPEで検索してみるといいだろう。
横波三里のスカイラインは素晴らしい荒磯の景観が楽しめる。ただ私のように二輪車で飛ばしていると景色を眺めている余裕はないが。楽しみすぎて側溝に車輪を落としているマイクロバスが一台乗り捨ててあった。レッカーを手配中なのであろうか、車内に人影は見えなかった。
 須崎市で半島を脱出して、また本土側を走るのだが、この行程で今回のお遍路中で最大の失敗をやってしまった。


2008年10月15日 (水)

カッファエンジン研究所報6

 また絶滅危惧種を入手してしまった。2サイクルエンジンのバイクである。以前はスバルの水平対向エンジン車を2台乗り継いだ。現在乗っている車のエンジンもOHV。どちらも古くさいエンジンである。水平対向エンジンを搭載した市販車を作っているのは、現時点ではポルシェとホンダとスバルくらいしかないのではないか。インドやロシアあるいはアメリカのメーカーで一部の車種にまだ採用されているかもしれない。OHVエンジンもまた同様で、吸排気を司るバルブの開閉を鉄棒の往復運動でやるために、素早い回転上昇には不適である。時代の進展とともにOHC、DOHCエンジンにとってかわられてしまった。
 今度入手したバイクの名はカワサキKSR2。2サイクル80cc水冷単気筒の過激な奴だ。そもそも2サイクルとは何かということを、エンジンに詳しくない人のために解説しておこう。
 現在、国内の2輪、4輪メーカーでは2サイクルエンジンの市販車を販売していない。2サイクル特有のカン高い排気音と排気ガスが、年々厳しくなる環境関連の法律をクリヤーできないからだというのが、表向きの理由になっている。この製作、販売の停止というのは、例によって業界の自主規制という形をとっているが、実は政府あるいは監督官庁の圧力によるものであることは明白なのだ。まったくわが国の自動車メーカーは官僚や政治家の圧力に弱い。まるで社会主義国のようだ。2輪車の高速道路2人乗り禁止時代、あと一歩で解禁になりそうだった時にわが国を代表する、あるメーカーの社長が国会で解禁延期を認める発言をしたために運動がすべてご破産になってしまった例もある。
 2サイクルは充分生き残れたはずなのである。2サイクルエンジンの最終末にホンダは排気バルブを付けたものを開発していた。それは低回転域で生ガスが排気に混ざってタレ流しになるのを吹き返してやる弁だった。そして高回転域になるとこの弁は閉じるという機構だった。オーストラリアにも2サイクルエンジンに意欲的に取り組んでいたメーカーはあり、メルセデスやトヨタもこの会社に出資していたほどだったのである。こうして見れば未来は暗いものではなかったのだ。このように技術の発展の芽を摘むのはわが国の官庁の得意技なのである。
 バイクの騒音の測定は極端に厳しい。加速していくものを後方から測るという方式だ。だから各メーカーは特殊な訓練をライダーに課し、測定に出す車輌は徹底的な騒音対策を施すそうだ。排気音等に関しても消音器の改良で乗り切れたはずだ。
 2サイクルエンジンの美点は多い。第一はエンジン自体が軽量コンパクトであること。4サイクルのような給排気の弁機構が無いのだから、これは当然である。第二は同じ排気量であれば、得られる駆動力が大きいこと。これは2サイクルエンジンはピストン上下に関して毎回爆発であることと、弁の開閉へのパワーロスが無いことが理由としてあげられる。4サイクルはピストン上下2回に対して1回爆発なのだ。
 では実際に乗ってみての2サイクル水冷エンジンというのはどんなものか。その前に確認しておきたいのは、2サイクルすべてが速いわけではないということだ。味付けによる。小さなキャブレターを付けて凡庸なエンジンに仕立てることも出来るし、吸排気系の流れを良くしてやると過激なエンジンに変貌しもする。そしてKSR2
のエンジンは後者に属する。水冷化はそのアフターケアに他ならない。
 高出力のエンジンは必然的に大量の熱を発生する。その熱を放置するとエンジンが破壊されてしまう。続く。


2008年10月11日 (土)

今年も

今年も
中山サーキットにおいてサイドカー走行会が催されました。カーに乗ってパッセンジャーを務めるワンちゃんは人気者です。ちゃんとゴーグルをはめてますねえ。コーナーではちゃんと体重移動していましたよ。スピードすなわち悪というしゃちほこばった考えが蔓延する世の中に、こういう集まりこそ必要なのです。芸術や技術を発展させる資金を提供した王侯貴族が居なくなった大衆社会では、その代わりを務めるマニアの存在が重要になるのですね。趣味のためにはお金に糸目をつけない人たち。コスト重視の大衆車ばかりでは技術の発展はないのです。ある意味カロッツェリアの国内サイドカーメーカーの発展に期待したいものです。

2008年8月21日 (木)

サイドカー

サイドカー
お盆には昔のお客様が続々とカッファに集まってきてくださいました。東京へ移住したW夫妻、コピー機メーカーのN氏、クラレのひと。極めつけはサイドカーで現れたK氏でしょう。このひとは私の30年前のバイク仲間。松山のバイクハウス阿部に組んでもらったものを東京まで乗って帰る途中で寄ってくれました。

2008年5月29日 (木)

信濃大町にて

 無性に喉が乾いてバイクを停めた。考えてみれば昨夜泊まった八ヶ岳の麓の清里高原から走りっぱなしではないか。松本を通過して安曇野も素通り、信濃大町まで来てしまった。街道沿いの商店街に八百屋を見つけて急停止。牛乳とパンで腹ごしらえをしておかないと今日の目的地の金沢までは体がもたない。歩道に乗り上げてヤマハDT1を停める。雪国特有の雁木がモダンになった簡易アーケードが夏の日射しを遮って心地いい日陰をつくりだしている。DTの傍らで買い込んだパンを頬張りながら、ふと道路の向こうに眼をやると、表情が分からないほど濃いサングラスをかけた屈強そうな体の男がこちらをにらんでいた。男の脇にはブルタコシェルパ。こんな田舎でスペイン製のレアなトレール車に乗っている奴がいるとは。
 それから10年以上経ってからだった、その時の男が作家の丸山健二だったことを知ったのは。その時の私は男のことをたいして気にもかけずに、そのまま旅を続け、アフガニスタンの奥地もかくやと思わせるような、その当時の小谷村周辺のラフロードを走り抜けて糸魚川へ出た。最終的には宮崎まで行って東京へ帰るDT1と私のロングツーリングの序章だった。
 丸山健二はそれ以前に読んだことのある作家だった。芥川賞受賞作の「夏の流れ」を文芸春秋で読んではいたが、刑務所の看守の生活を描いた作品だったということ以外には細かいストーリーは覚えていない。その彼が生まれ故郷の大町周辺に住んでいて、オートバイを趣味としていると紹介している新聞記事を読んだ時にすべてがわかった。あの時の男は丸山健二以外に考えられないと。彼は云ってみれば孤高の人。所謂文壇というものからは隔絶した活動をしている人である。
 世間で云う文士という人種の生活は不健康そのものだ。昼夜が逆転した生活があたりまえ。何本もの連載を抱えて日に夜を継いで書きまくる。締め切り直前には出版社の近くのホテルに缶詰めになって書かされもする。よくもまあ並行して書き進めている小説のストーリーが輻湊しないものだと私は感心してしまう。なかには芸のこやしだと恋愛をして、人妻と心中事件を起こす者まで出る騒ぎだ。常葉新平が体験談を書いていた。直木賞を貰ったとたんに複数の出版社が電話をしてきて、「先生、受賞おめでとうございます。ついては、今後銀座のクラブAとBとCではいくら遊ばれても、うちのほうでお支払いいたしますので。」といった内容のことを言ったというのだ。実に馬鹿げているではないか。今をときめく幻冬舎などはそういった水商売的な手法でのしあがってきた出版社だ。
現存する作家のなかでも一、二の美男と思われる島田雅彦が書いていた。「両村上(村上龍、村上春樹)の小説は小説ではなくて、おとぎ話だ。私はあんなものを書く気はない。」と。作家それぞれの自負心といったものがあるのだろう。そんななかでも丸山健二のそれは異彩を放っている。彼に言わせれば、作家と称せられる人種が書く雑文は許せないものになる。プロの作家にとって、どこそこのレストランで供せられる鯛のエスカベーシュは絶品だった等と原稿用紙4、5枚にまとめるのは朝飯前の仕事だ。実際に我々も高名な作家が雑誌にそのような文章を書き散らしているのを読む機会も多い。作家にとっては、こういった雑文のほうがはるかにてっとり早いアルバイトになるらしい。しかし、そこには落とし穴もあって、文章の質が下がる。丸山健二は「文章が荒れる」と表現している。確かに以前から文学者による食に関する名文は数多く残ってはいる。吉田健一、池波正太郎、丸谷才一等々。これらに比して、最近の作家のものは質が格段に低い。国語力のない作家が多すぎるし、食文化全体に関する造詣の浅さが露呈しているものが多い。まったく読むに値しない。そのあたりを丸山健二は指摘しているのだろう。所謂作家ではないものの、食にまつわることを書かせたらピカイチというひとを挙げろと言われたら、私なら睦田幸枝の名前を出す。以前「サライ」誌に連載されていた「もうひとつの旬」ですっかりファンになってしまった。
 丸山健二は最近もまた新作を発表している。久しぶりに読んでみようか。こんな骨太の作家にこれからも活躍してもらいたいものである。

2008年5月 9日 (金)

カブでお遍路14

 高知という所はそれほど観光資源に恵まれた場所ではないはずだ。にも拘わらず観光客のあしらいには長けている。有名な温泉があるわけでもなければ、特に風光明美なところがあるわけでもない。桂浜にしてみたところで目の前にひたすら茫洋とした海がひろがるただの海岸だ。現地のひとが自慢する皿鉢料理も言ってみれば、野趣あふれるという形容がぴったりするような素朴なものではないか。こうした所へ県外からの観光客を誘致するには並み大抵の努力ではないものが必要となってくる。
 高知には、ひろめ市場と同じように観光客が回遊する場所として市内南部にもう一つ「よさこい本陣」という施設がある。ここでは観光バスで乗り付けた県外からの観光客が踊り等の出し物を見ながら食事ができる。要は観光客が自家用車やバスから降りてくつろげる場所を作らなければならないということだ。
 翻ってわが岡山.倉敷の観光地を見るにつけ、観光客のくつろげる場所があまりにも少ないことに驚く。日本三大名園のひとつとして宣伝している後楽園にもそういった場所は無い。園内に数カ所の茶店があるだけだ。バブル期には相生橋を渡った出石町にバス専用の駐車場を設け、観光客を出石町方面へ回遊させる計画もあったようだが、今のところ相生橋の拡幅、歩道の設置にとどまっている。観光バスで移動する団体客には食事する場所が必要なのだが、後楽園、倉敷美観地区ともにそのような場所は確保されていない。バスはやむなく県内の高速道路のサービスエリアで弁当業者の配送車とドッキングし、観光客は車内で食事をとっているという図式だ。ここまで観光の振興に力を入れないということは弁当業者への配慮なのだろうかと勘ぐりたくなってくる。
 広大な土地に駐車場つきの飲食スペースを作ってご当地の踊り等のショーを見せる。土産物も販売する。こういった施設は高知以外にも数多く見られる。島根県の島根ワイナリーや足立美術館もそうした成功例のひとつであろう。そうすれば500円観光と揶揄される倉敷にも少しはお金が落ちるのではないだろうか。
今回のお遍路で特に印象に残ったのは高知市南部の農村地帯を縦横に走る水路だった。水面と地表面との高低差が殆ど無い。これなら田に水を引く場合でも、別に水車やポンプを使わないでも楽に水は入る。しかし、大雨の時はたちまち氾濫ということにならないのだろうかと少々心配になった。考えてみれば、こんな手で水を掬えるような川が日本じゅうから姿を消してしまっている。川という川、用水路という用水路はすべて行政の手によってコンクリートで護岸工事がなされている。税金を湯水のように使ってだ。子供が落ちたらまず這い上がれない。それどころか亀も甲羅を干しに上がれるところが無いし、蛇もおぼれ死ぬ。トンボやホタルも卵を産む場所が無い。こうして川が流域住民の生活とかけ離れた存在になってしまったのだ。
 しかしこの度は少々安心した。まだ、こういった水に親しめる農村地帯が日本に残っているのだと。建築に携わる人達の中にもこうした人と川との隔離した状況を危惧する人もいるようで、岸和郎設計の熊本県の橋は全体に優美なカーブを描き、両端に川床へ降りる階段を持っている。続く。


2008年4月17日 (木)

カブでお遍路13

カブでお遍路
正月に28番大日寺までまわって以来中断していたお遍路をやっと再開した。雪とあの強烈な寒さに少々メゲていたのもあって延び延びになっていたのだ。今回は天気にも恵まれ、上々のツーリング日和。気温も上がってきた。それはそうだが、高知日帰りは少々ハードだ。出発は6時にしないと、とても昼には着けないだろうと読んだ。
 高知は紀貫之が流された場所として知られるとうり、高い山で囲まれて外界と隔絶された世界である。開いているのは南に果てしなく広がる大平洋だけ。言葉ひとつとっても他の三県とはまったく違う。男の「いごっそう」女の「はちきん」という形容詞に表されているとうり、豪放磊落な性格が県民性であるとされる。それがどこまで当っているかは疑問としても、お遍路で四国を回ってみると、確かに県民性の違いがあることを実感するそうだ。大名として赴任した山内家は明治維新まで、ずっと土地の地侍の抵抗にあったそうだし、それは現代でも同じで、橋本前知事も似たような経験をしたはずだ。
 フェリーを降りて琴平まではヤマハTmaxとセローと並走することになった。Tmaxは水平に近いまで前傾した並列2気筒のシリンダー間に後ろ向きにダミーのピストンを置き、バランサーとしている独特のエンジンを持つ。これは排気量にものを言わせて余裕の走りを見せている。セローはおせじにも品がいいと言えない改造を施していた。エイプハンガーっぽいハンドルにブラストマフラーの組み合わせだ。抜きつ抜かれつしながら走ったが、琴平からは単独行になった。この国道には古風なしきたりが残っていて、遅い車は路肩の広い所で時折停まり、後続車を先に行かせる。大歩危、小歩危あたりは正月に走った時とは大違いで、楽に走れた。
 11時には高知市内へ入ったが、友人との待ち合わせ場所の「ひろめ市場」へ行くのには早すぎるので、マクドナルドで時間調整をすることにした。マックのコーヒーを私は結構気に入っている。悪くはない。スタバよりはまともだ。なぜならマックは紙フィルターで漉しているが、スタバはエスプレッソだからだ。
 「ひろめ市場」では友人夫妻に特製かつおのたたき定食をごちそうになった。彼等も引っ越しが済んでやっと落ち着いたところだと言っていた。「ひろめ市場」は衰退する市内中心部の帯屋町商店街を復興させる目的で平成10年に開発、建設された複合商業施設である。地元の食材を使った飲食店に囲まれたフードコートと高知の特産品を売る物販コーナーがある。私は過去に二度来たことがあるが、今回のように平日でもかなりの客数を維持しているのには驚いた。開設から10年経って飽きられていないということは素晴らしい。地元商店街や運営スタッフのたゆまぬ努力の結晶であろうと推察される。
このような中心商店街の復興策が、わが岡山ではまったく成功しない。その原因は岡山県人の性格の悪さと「官」の排除に失敗したせいだと私は思っている。岡山県人は猜疑心が強いし、他人の成功を素直に喜べない嫉妬深さがある。また、半公共的事業に介入して来ようとする役人を排除しなければその事業の成功はおぼつかないことも今やこの国の常識になっている。役人に売り上げを上げようという発想はさらさらないし、同じ給料なら楽な道を選ぶという体質は彼等に染みついている。「感動産業を誘致する」という耳慣れないキャッチフレーズ
で吉本興業を引っ張ってきて三丁目劇場をこしらえたのは任期半ばで職を投げ出した前市長だった。その劇場も吉本に逃げられて寂れてしまっている。もともとその場所は地元小売業大手が県外資本の進出を妨害するためだけに保有していた塩漬けの土地だった。つまるところ元市長は美辞麗句を並べてその小売業者から数億の金で土地を買い上げてあげただけだったというのが真相だ。
 巨費を投じて県主体で土地を買収、建設されたシンフォニーホールもまたそういった例にもれない。2001席というくだらない数字あわせで設計されたホールは音響効果が悪くて地元音楽家にも不評だし、毎週音楽イベントが催されるはずだった広場は単なる自転車置き場に成り下がっている。一階の県の物産コーナーも閑古鳥が鳴いている有り様だ。表町商店街復興の起爆剤になるはずが今や巨大な廃虚になろうとしているではないか。
このビルの二階については奇々怪々な話がある。当初、県外大手百貨店がショップを出店する予定だったところへ地元大手小売業者が横槍を入れたというのだ。地元優先ということで一旦はその地元資本を入居させることに
なったのだが、ビル完成真際になってその地元資本は降りてしまったのだという。で、その業者の採った次なる行動が面白い。道路向かいのボロビルを買ったのだ。角地を押さえる戦術。県外大手資本が進出してくる場合、標的になりそうな角を押さえておけば出店できない。最小限の努力で最大の効果をあげるというのはクラウゼヴィッツの戦争論でも読んで研究したのだろうか、なかなかの戦略家である。先に述べた塩漬けの土地もまったく同じ理由でその大手小売業者が保有していた土地だ。
 ことほど左様に岡山県人というのは性格が悪いのである。資本主義というのは競争で成り立っているのであって、競争のない所に発展は無いというのは自明の理だ。。岡山の消費が低迷しているのにはこういったところにも原因があると私は思っている。「寄らしむべし、知らしむべからず」的な発想で岡山の小売業者が旧態依然とした商品を並べている間に消費者のほうはそれをはるかに飛び越えて、神戸まで買い物に行ったり、ネットで取り寄せたりしている。競争を恐れるがあまり、自分で自分の首を絞めてしまったと言うべきだろうか。
岡山の商店街関係者は高知のひろめ市場や伊勢のおかげ横町の成功をハード面だけでなく、ソフト面からも研究してみる必要があるのではないだろうか。

2008年2月 6日 (水)

カブでお遍路12

 今回訪れた最後の大平寺の近くにあった「バーミヤン」で定食を食べているうちにだんだんその気になってきた。イチかバチかやってみよう。このあたりは寒いうえに強風は吹いているものの晴天だが、北の方の山は雲に覆われている。きっとあの下では雪が降っているに違いない。白馬のスキー場で2シーズンを過ごしたことのある私は雪雲かそうでないかは見分けがつく。小歩危あたりでチェーン規制がかかっていたらどう対処するか。「近所の者です。家はすぐそこですから。」カブならそのように見えるかもしれない。しかしナンバープレートを見られたらおしまいだ。「雪のないところまで押して歩きます。」これしかない。これなら文句のつけようがないではないか。道路交通法では、エンジン停止状態でバイクを押して歩く人は歩行者なのだから。
 南国市から北上、いよいよ香川県側への山越えにかかる。釣り用のボートを牽引したパジェロ.イオがいいペースで走っているので、これをペースメーカーにして登っていくことにした。牽引した車は急な加減速はしないだろうと読んでいたら、そのとおりだった。パジェロ.イオが湖の方へ左折した後は単独で走ることになった。そのまま突き進んでいくと祖谷渓あたりからだんだん暗くなってきた。雲のなかに突入したようだ。モンベルの看板を掲げた店が2軒あったが、モンベルのカヌー用品を扱う店なのだろうか。祖谷渓は全国からカヌーイストが集まってくるスポットなのだ。四万十川ならのんびり下れるが、ここに艇を浮かべるのはかなりの手練れでないと難しいはずだ。 小歩危では最悪の天候になった。雪は降ってくるし、路面はシャーベット状。気温は0度C付近だろう。幸いチェーン規制はなかった。吐く息でヘルメットのバイザーが曇る。タイヤの接地面はおそらくカチカチに硬化しているだろうから、グリップ力を失っていることが想像できる。滑らないことを祈りながらコーナーではなるべく車体を傾けないようにしながら曲る。リヤが流れた時には、それと逆の方向にハンドルを切る、いわゆる逆ハンというテクニックがある。するとアーラ不思議、車体は立ち直る。こう言うと何か特殊な技術のようだが、2輪車に乗っている人なら皆軽い逆ハンは切っている。ただそれと気がつかないだけなのだ。しかし旅先で必ずうまくその技術が決まる保証はない。用心が一番だ。
 悪戦苦闘は一時間ほどだった。池田町まで来ると空はまたウソのように明るくなってきた。池田町からもう一度山越えをすると香川県側へ出る。途中、こんぴらさんの末社の神社には初詣での客がつめかけていた。これを見ると、こんぴらさんや善通寺にはもっとすごい人出が予想される。今回のこの日程は前回自動車で回った時に気がついたのだが、初詣での渋滞を避けるのには」最適なのだ。八栗寺、薬王寺、琴平宮、善通寺が混雑する前にて通過、あるいは逆コースで回避できる。
 例によってカブは瀬戸大橋を渡れないので高松へ向かう。丸亀、高松間は高速道路と見まごうばかりに整備されているうえに交通量が少ないので、巡航速度が速い。しかしわがお買い物号はその流れをリードする速さで走り、高松港へ向かった。


2008年1月26日 (土)

カブでお遍路11

 はるかむこうに見える室戸岬をめざして快調に飛ばす。左手は海がはてしなくひろがっている。強い風で大きな波が打ち寄せてくる。歩き遍路の人は笠を片手で押さえながら、体を斜めにして前進している。こちらもバイクが時折風で煽られる。後続の自動車がそれを見てだんだん車間を広げているのがバックミラーで分かった。
 このあたりの道は昔は酷いものだった。1972年頃、カワサキA1SSという2サイクル250cc2気筒エンジンのマシンで逆コースで回った時、山の中のくねくね道で崖に激突させたあと側溝に落ちたことがある。フロントフォークか曲ってしまったバイクではその後速度を上げられず、徳島港に着いた時には東京行きのフェリーが出たあとで、沖合いにまだその姿が見えていた。翌日のフェリーを待って、徳島で無為に一日を過ごしたのを覚えている。その頃は東京に住んでいたのだ。
ようやく室戸岬に着いた。空海が悟りを開いたと伝えられる洞窟で写真を撮っている時、さっきのハーレーの一団が走り抜けていくのが見えた。急な坂を登って最御崎寺へ。ここには’72年の正月に泊まっているはずなのだが、境内のようすにあまり記憶がない。なにしろ35年も前のことなのだから。
神峯寺はかなり標高の高いところにある。先の寺で見かけたフィアットのキャンピングカーは麓の空き地に置いてあり、その所有者が歩いている。あの図体では登らないだろう。舗装されてはいるが細い山道を時折セカンドギアを使いながら登っていく。と、2台のハイエースが登っているのに追いついた。前の車はそうでもないが、後続の車はコーナーでのライン取りがインすぎて、つづら折りのコーナーごとに内側の後輪がスリップしてキュッキュッと派手な音をたてている。ハイエースは後輪駆動なのだ。いくつ目かのコーナーでついにグリップを失って巨体がずり落ちてきた。危ないところだった。こんな所で死にたくない。
 ハイエースではあまりにもホイールベースが長すぎる。同じ系統でお遍路向きの車を捜すとなると、私ならダイハツ.アトレーワゴンを選ぶだろう。この車ならホイールベースが短いし、リアタイヤがスリップすることもない。あるいは車種は違うが、日産マーチe-4WDもいいかもしれない。知的な選択と言えそうだ。この車は普段は2WD、前輪が引っ張ってすすんでいるが、前輪が滑った時には即座に後輪に仕込まれたモーターが動きだすというものだ。
今回のお遍路のこのコースは総じて海の眺めがいい。最御崎寺、金剛頂寺などは最高だ。毎年このシーズンに来てもよさそうな気がする。

2008年1月22日 (火)

カブでお遍路10

 「ひこうせん」の先のトンネルの中を走っている時、後方から猛烈な爆音が聴こえてきた。トンネルを出たあたりで抜かれたが、その時にチラッと見ると岡山のプレートを付けたハーレー3台だった。バルコムの客だな、世界一のバイクのスーパーカブを抜くとはふとどきな奴らだ。離されないように後ろにピタリとつけて追う。幸い、あまりスピードは上げない。遅いトラックに追いついて、追い越しの機会を探っているスキをついて左側から抜き返した。カブの勝利だ。無敵なのだ。ツルんでしか遠出できない臆病もののハーレー乗りなんぞに負けてたまるか。こっちはバイク暦37年、キャリアが違うってもんだよ。バックミラーに姿が見えなくなるまで、はるかに引き離してやった。
 ハーレーについて言わせてもらえば、あんなうるさいバイクが平気で輸入されていることが理解できない。騒音規制で手加減してもらっているとしか思えないのである。高速道路二輪車二人乗り禁止条項が解除になった背景にもハーレーとアメリカ商務省のタッグマッチがあった。ハーレーが商務省に、日本市場でうちの製品が売れないのは高速道路で二人乗りできないからだと泣きついたのだ。とんでもない勘違いというか、いいがかりだが、そのおかげでわが国の二輪車ファン待望の規制解除が実現したのだから、怪我の功名と言うべきかもしれない。アメリカは世界じゅうに民主主義を教えてくれているのだという。そのためには地の果てまでも軍隊を派遣する。その結果としてアメリカ製品が売れるようになったり、石油が安く手に入るようになってもそれはあずかり知らぬことらしい。ディズニーやコカコーラやサーフィンしか文化と言えるものが無い国が茶の湯や禅だけ取っても数百年の歴史を持つ国に行儀を教えようというのだ。
 日本は外圧には弱い国だ。いや外圧がなければ変わらないと国だと言っても過言ではないだろう。
 アメリカ商務省の申し出を受けて日本政府がやったことがまたふるっている。暴走族が乗り入れると困るという観点から何十年も規制をかけてきた法令を今更解除する根拠が無い。暴走族が日本じゅうから絶滅したわけでもなければ、二輪車が急に安全な乗り物になったわけでもない。かと言って、アメリカ政府からのお申し越しによりまして、と本音を吐露すればメンツにかかわる。
 まずは結論ありきだ。どうあっても高速道路二輪車二人乗り可へ持って行かなければいけない政府が採った珍無類の策というのはこうだ。警察庁だか運輸省だったか失念したが、そのホームページに国民から解禁に賛成か反対かの意見を寄せてもらって、その結果を参考に解禁に踏み切るかどうかを判断するというものだった。
 ところが意見募集の途中経過では反対の方がどんどん増えていく。これでは困るというのでその監督官庁から二輪車の団体に解禁賛成のメールを送るようにと要請が入ったというのだ。二輪車が二人乗りで高速道路を走れるようになったおかげでハーレーの販売台数が伸長したかどうかは知らないが、アメリカ様の為にはここまでやるのがこの国の政府だ。これこそ思いやりではないか。なさけないこと甚だしい。

2008年1月16日 (水)

カブでお遍路9

 23番薬王寺に着いた時には日はとうに暮れていて、門前では露天商が大勢で開店準備をしていた。駐車場にカブを停めて歩こうとするが、寒さで脚が痺れてしまっている。びっこを引きながら階段を登る。例の硬貨が敷きつめられた階段である。登りながら携帯を見ると、宿から留守録音が入っているではないか。「連絡がないが、今夜は本当に泊まるのか。」という内容だった。あわてて確認の電話を入れる。再びカブに跨がり、海部町の宿みなみ旅館をめざす。宿の食事はなかなかよかった。この値段でここまでしてもらっていいのか、というほどだ。夕食には年越し蕎麦がついていたし、元旦はおせち料理とお雑煮。この雑煮が味噌仕立てなのにはかなり驚いたが。宿の奥さんに見送られて出発する。みかん2個と手拭いのお土産までもらってしまった。四国を走ってみて分かるのだが、どんな辺鄙な所にも宿がある。やはりお遍路で旅する人が多いせいなのだろう。四国全体に及ぼすその経済効果ははかりしれない。宿を出てすぐに宍喰町を通過。ここには数年前に一泊したことがある。その時行った喫茶店「ひこうせん」には早朝にもかかわらず電燈がついていたが、今回は寄らなかった。鄙には稀なという表現がぴったりの大人のムードの喫茶店だ。それというのもここ宍喰町は京阪神のサーファーが集まってくる海岸があるので、意外なほど都会的なのである。
前回は車で来た。その旅の目的は薬王寺へ参ることと、この「ひこうせん」だった。高松でホテルマンをしてい
D氏が、徳島県の南部の宍喰町にいい喫茶店があるから是非行ってみてくれと力説する。じゃあどういいのかと訊ねても明確な答えは返ってこなかった。もともと無口なのだ、D氏は。こうなれば自分の眼で確かめるしかない。やっとたどりついた町はずれの国道沿いのトンネルの入り口近くにその店はあった。カウンターでコーヒーを飲んでいると、テンガロンハットを被った男とその奥さんらしきひとが店に入ってきた。「岡山から来られたんですよ」という店のママさんが紹介するのに応じてその男は「岡山では高島屋で個展をします」と言うではないか。訊ねてみると、以前ラピタ誌で読んだことがある陶芸家の梅田純一氏だった。
ラピタに廃校になった小学校の校舎を借りて陶芸をやっている作家を紹介した記事があった。ラピタの記事の主眼はその陶芸家が余技で作っている「聴音器」というスピーカーだった。なんとなくデュシャンの「泉」を思いおこさせる形状のそのスピーカーは頂上部の穴が謎で、バスレフの開口部なのかツイーターが付いているのかよくわからなかった。その作家が眼前にいるのだ。その記事を読んでしばらく経っていたので、その作家がどこに住んでいるのかもすっかり忘れてしまっていた。
 「先生のラピタの記事よみましたよ」とこちらが言ってもあまりうれしそうな顔をしなかったのは、本来の陶芸の方で紹介された記事ではなかったからかもしれない。「このあたりには今、変わり者が続々と移り住んできているよ。カヌーの野田知佑もその一人だ」と梅田さん。徳島南部が意外に住み易いところだと解説してくれた。

2008年1月 3日 (木)

カブでお遍路8

 「しまった。」悪い予感が的中した。南国市へ向けて高知の海岸を走っている時、頭上の交通情報の電光サインに「小歩危 チェーンが必要」と出ているのを発見した。出かける時にもかなり悩んだ。カブで出なければ
「カブでお遍路」の意味が無くなる。この冬一番の寒気団が日本列島に襲いかかり、西日本でも降雪が予想されている中、二輪車で出かけていいのか。海岸線の道はまだしも、帰りの高知からの山越えのあたりが積雪した場合、最悪帰れないのではないかと思った。悩んだ末、イチかバチかの大勝負に出ることにした。もしも雪が降らなかった場合、悔いが残るではないか。装備は寒さ対策を一番に考えた。恰好などはかまっていられない。ハンドルカバー、オーバーパンツ、ヘルメットの下には覆面も被った。これでリヤキャリアに大きな青いプラスチック製の箱をつけて走るのだから、完全な親父ファッションである。誰が見ても地元のおっちゃんが商品の配達をしている風にしか見えないだろう。ところがおっとどっこい、そのおやじバイクのリヤサスを見るとカヤバ製のエアサス、しかもサブタンク付きがついていたりするのだ。よーく見るとこの親父がただ者ではないということがわかるのであります。
 いつものように本四フェリーで高松へ渡る。11号線を淡々と走って徳島へ。四国の道は交差点でかならず二輪車が前へ出られるように停止線が描いてあるので助かる。徳島に行くと必ず寄る珈琲美学で休憩。大晦日なので満員だ。美学ブレンドと鳴門金時ケーキを注文する。どんなケーキなのかと思っていたら、よくあるかぼちゃのプリンのさつまいもバージョンだった。先を急ぐので、コーヒーを飲み終えると早々に席を立つ。
 小松島あたりで珈琲美学の支店とまた別のしゃれた外観のコーヒー店を見かけた。いずれまた立ち寄ってみようと思う。結果的には今回は見落としてしまったのだが、この街道沿いには一軒非常にユニークな喫茶店が在り、時間が許せば寄りたかった。大菩薩峠というのがその名だ。中里介山の筆になる世界一の長編小説を名に冠しているということは、この喫茶店のオーナーが長期に亘って自らの手で店を作っていることにも関係があるかもしれない。数年前にここを自動車で通りかかった時に道路脇に煉瓦造りの西洋の城のような建築物を発見した時には本当に驚いた。膨大な量の煉瓦を使い、30年以上もの歳月をかけたオーナーの執念の塊である。
 四国にはもうひとつこうした手作り建造物がある。高知市内の沢田マンションは建築にはまったくの素人の一家が行政の建築確認申請も経ないまま増築をくりかえして作りあげた巨大マンションである。どちらも今後、レポートを書いてみたいと思っている。

2007年12月22日 (土)

サイドカー

サイドカー
中山サーキットに出ていたレーシングサイドカー。今月号の別冊モーターサイクリストにも紹介されています。

2007年12月 3日 (月)

カッファエンジン研究所報3

 30年前には私もサイドカーの愛好会に所属していた。当時目立つサイドカービルダーといえば大陸モーターがあるだけで、サクマエンジニアリング等の若手サイドカービルダーの萌芽が各地に出てきつつあった。三浦半島で大陸に負けじと高速サイドカー作りを目指していたK氏の主宰する「だいだらぼっち」もそうしたなかの一つだった。残念ながら「だいだらぼっち」は数年の活動のみで姿を消したが、その目指すところはかなりの高次元のものだった。「だいだらぼっち」のお客を中心に「偏西風」というツーリングクラブが結成されており、関東各地をよく走りまわったものだった。
 その当時と比べて最新鋭のサイドカーは格段の進化を遂げている。一番の進化は車体側のフロントサスペンションだろう。所謂ハブステアという方式の採用で車体全体の安定とステアリングの軽さを実現している。 サイドカーは四輪の自動車をもとに考えれば、前輪の片側が無い状態だから、非常に不安定な移動体なのである。また通常のオートバイのテレスコピック式のフロントサスペンションのままではコーナリング時に捩れが出て摺動性能が悪化するし、ステアリングも重くなる。これらの問題を解決するために開発されたのがハブステアであろう。さらにはカー側の車輪が連動して動くものまでが一部の車両に見受けられる。長く最新のサイドカーに接する機会のなかった私には、このたびが実物を見るはじめての機会だった。
 中山サーキットでは、松山の地で意欲的なサイドカーへの取り組みをしているバイクハウス阿部の社長にもお会いした。また、モーターサイクリスト誌上で内外の新製品サイドカーの試乗記を執筆している小関氏の姿も見かけた。
 車体下部から前方に向かって突き出た長いアルミ角材のアームを見た時、ここまで来たのかと少々センチメンタルな感慨がこみあげてきた。大陸モーターの太田さんや「だいだらぼっち」のK氏が火をつけた高速サイドカーの灯が全国各地のサイドカービルダーに飛び火して、燃え続けているのだ。大メーカーの手を出さない、いわばニッチのサイドカー市場だからこそ実現できた現在の隆盛なのかもしれない。二輪、四輪が各種の法規制でがんじがらめになる中で、ほんの少数の愛好者に支えられつつ、いわば法の網をかいくぐるように生き延びてきたサイドカーの世界だからこそ成しえた到達点なのだ。わが国で真のカロッツエリアと呼べるのはサイドカービルダーをおいて他にないと言えるかもしれないとさえ思った。仕事場に戻るためにスーパーカブに跨がり、まだまだ走行会の続く会場を辞した。

2007年11月27日 (火)

カッファエンジン研究所報2

 「明日、中山サーキットでサイドカーの走行会があるんだけど」。連休初日の11月23日夕方、いつものようにいきなり皮ジャン姿で現れたM氏に誘いを受けた。M氏は全国どこへでも愛車のヤマハGX750サイドカーで出かける、その道では有名なベテランドライバーである。備前市の中山サーキットまでは約1時間。自動車で行くことも考えたが、帰りの渋滞を考慮に入れてカブで出かけた。サイドカーの集まりに自動車で出かけるのはやはり失礼だろう。
 私にとってサイドカーの集まりに参加するのは27年振りである。イベントと名のつくものが開催されるのはたいてい土、日曜日だ。商売をやっていると、なかなかそういうものに参加できない。
 そもそもサイドカーとはどういう乗り物なのか。オートバイの横に人間や荷物を乗せる車台を作り、車輪をもう一つ付けた三輪車である、と言えばいいだろうか。多くのひとは第ニ次世界大戦でドイツ軍が使っていたあの古くさい乗り物というイメージを持っているだろう。そう、絶滅危惧種なのだ。
ところが、この絶滅寸前のサイドカーが近年長足の進化を遂げている。右と左で曲がり方が違うという乗り物はサイドカーしかない。バイクの左側にカーが付いた左カーの場合は右カーブでは減速、左カーブでは加速しないと曲がれない。ディファレンシャルギヤのかわりをアクセルワークでやってやる。普通の自動車はディファレンシャルギヤの働きで、カーブの外側の車輪が内側のそれよりもたくさん回る構造になっている。ところがサイドカーの場合は片輪だけに動力が伝わる構造になっているので、アクセルのオン、オフだけで容易に車体は向きを変える。言い換えれば、四輪の自動車では難しいドリフト走行が簡単に出来てしまう。サイドカーは生来のドリフトマシンなのである。
 サイドカーは一般人からも二輪好きからも偏見を持ってとらえられている。二輪車にそれほど興味のない一般人は戦争に使われた、なんだか古くさい乗り物ととらえているだろうし、二輪マニアのそれは、スイスイ走るのが身上の二輪車によけいなものをくっつけて、遅いに決まっている、というものだろう。だがサイドカーファンから言わせてもらえば、どちらの見方もまちがっている。食わず嫌いというものだ。
 一度でも運転してみるか、カーに乗せてもらえば、その考えがいかにまちがったものだったかを実感するはずだ。驚異の回転半径でのUターンやカーを持ち上げての走行等のトリッキーな動きは体験してみないとわからない。皇宮警察にサイドカーが採用されているのも、その機動性の高さを考慮してのことだろう。

2007年10月25日 (木)

カッファエンジン研究所報

 経営基盤が安定せず、迷走を続ける富士重工。一時は大株主に躍り出たGMが手放した株を引き受ける形で05年10月にはトヨタがその盟主として登場することになった。しばらくはゆるやかな連繋というかたちを取っていたようだが、ここにきて具体的な技術協力の方向性がまとまってきたようだ。今夏には富士重工製の水平対向エンジンを搭載したスポーツカーを両社が共同開発するということが発表された。
 この車の詳細は未だ発表されていないが、当カッファエンジン研究所ではこの車をトヨタが最近販売終了したMR2をベースにしたものになるのではないかと睨んでいる。ニュルブルクリンクでハイブリッド版のMR2が走っていることさえ目撃されていたのに、急に販売を終了した裏には何かあるはずである。
 大メーカーが中小のメーカーを吸収して共同開発をする際にはある思惑が働く。それは大メーカーのメンツというやつである。よく似た例がある。フォードがジャガーを吸収したあとにジャガーの小型版を出した。これは欧州フォードに以前からあるモンデオと車台が共通だったのだが、フォードはそのメンツにかけても同じものだとは言われたくなかったと見えて、4WD化してしまったのだ。
 トヨタも同じことをするはずである。FFのスポーツカーを出したのではインプレッサの焼き直しだと言われるに決まっている。さてどうするか。従来のスバル車にはない形式を採用するしかないとなるとミッドシップでリヤを駆動するMR2を流用するのが手っ取り早い。これで資金難の富士重工では成し得なかったスポーツカーが誕生し、またトヨタのメンツも立って万々歳となるわけである。以上は消去法による類推に過ぎないが、考えられるトヨタの動きはこれ以外はないだろう。
 もともとトヨタはいいとこ取りの単なる組み立て屋だ。難しいことは子会社にやらせる。子会社ではないものの、高級なDOHCエンジンはヤマハに納入させ、小型のディーゼルエンジンはダイハツに開発させている。富士重工からは世界に誇れる名エンジンの水平対向が手に入ったわけだ。しかしこんなお手軽な車作りがいつまで通用するだろうか。意外なところにライバルは現れてきている。日立グループが自動車産業に触手を伸ばしてきているのだ。既に自動車関連の部品メーカーを手中に納めてきている。原子力発電から宇宙開発まで手掛ける日立からすればトヨタは機織り屋からの成り上がりにすぎない。今後の展開が注目される。


2007年10月14日 (日)

カブでお遍路7

 徳島県内の札所で2箇所飛び抜けて山奥に位置する寺がある。鶴林寺と太龍寺だ。これを日程のなかにどう組み込むかはけっこう頭を悩ます。どちらも阿波路では有名な難所なのだ。タイカブの人達を置き去りにする形でスピードアップし、勝浦川沿いに上流へと上る。鶴林寺を打ったあと山を降り、那賀川沿いに下る。殆どのひとはロープウェイで寺へ上がるので川の上流へ向かうなか、たったひとりの行動だ。何故自動車のひとまでもがロープウェイの方へ向かったかの謎は後に解けた。川の支流に沿う小道に入って谷の奥へ詰めていくと、いきなり登山口が現れる。そこに立つ看板の文章を読むと、自動車道ではあるが、途中から通行不可で、その先は徒歩で1.5kmとある。これだ。皆が敬遠する訳だ。だがここまで来た以上、1.5kmは覚悟して登りにかかる。30分ほど登って、標高にして150mあたりだろうか、狭い駐車場が現れた。そしてそこには予告どおり「この先は自動車は通行できません。」という看板があった。駐車場より先はぐっと道幅が狭くなっているうえに、登り口には鉄柵まで設置されているではないか。しかも駐車場には車の一台の姿もない。要はこのルートには、歩きを嫌って誰も来ないのだということが見てとれた。覚悟を決めてカブから降り、荷物を持って柵をくぐろうとした時に小さな注意書きが眼に入った。なんとそれには「二輪車は通行可」と書いてあったのだ。なんと物わかりがいい。そう来なくっちゃ、と早速またバイクのところへ戻った。再びエンジンを始動して柵の間を通って登りにかかる。確かに四輪通行不可というのは判る気がする。かなり以前に作られた道のようで、路面は一応コンク       リート舗装されてはいるのだが、殆どひび割れてタイヤがはまりそうだ。勾配も急だから、現代の車でこれを登れるのはジムニーくらいのものだろうか。
 こういう時のカブは実に頼もしい。足付き性は抜群だし、ローギヤは極端に強い。そのうえ自動遠心クラッチにエンストは無縁ときている。まるでトライアルのセクションのような道を30分ほど登ってやっと寺に着いた 。しばらくすると、どうやらロープウェイのゴンドラが着いたようで、駅からひとが上がってきた。初陣を切ってきたひとが早速読経を始めたが、このひとの顔はどこかで見たような気がする。世間を騒がせた企業のトップにオーナーに替わって就任したひとにそっくりなのだ。お遍路をしていると思わぬひとに出会うことがあるとは聞いていたが。でも中年のオヤジが不精ひげを生やすと、同じような顔になるのかもしれない。


2007年10月10日 (水)

カブでお遍路6

 第三回目のお遍路を敢行したのは7月31日、この日も暑かった。しかもサングラスを忘れて来てしまっている。出発前にどう捜しても出てこなかったのだ。私自身、用意は周到にしている部類に入ると思っている。カブの後ろの荷台につけた箱の中には雨具は言うに及ばずパンク修理の道具一式まで入っている。それでもなお小物を忘れて失敗することがある。この日も強い日ざしに眼がやられそうになった。今回は鳴門の手前の町から県道1号線へ入って板野郡へ近道をしてみた。11号から離れて山の中を登ると瀬戸内海の素晴らしい眺望が開ける。その意味ではこの道は収穫だった。地図上ではこの地方の主要道のように見えるが、実際に走ってみると交通量が非常に少ない。すれ違った車はほんの数台、まわりの木々の間から小鳥の鳴き声が聴こえてくるほどだ。     こういう時カブは排気音が静かなので助かる。峠を越えて降りたら、意外や見慣れた交差点に出た。ここは第一回目のお遍路の時に何度も通ったところだ。
 いつものように徳島市内の珈琲美学に立ち寄り、昼食を取ったあと11号線を阿南市に向かって南下している時、はるか前方に白いお遍路の装束でカブに乗って走っている男を発見した。ライダーがヘルメットを被り、笠を荷物にくくりつけているのが見える。こちらのスピードが速いので、すぐに追いついたが、併走した時にチラッと横を見ると一般的に云うタイカブだった。横浜市のナンバーでピンク色だから原付3種。荷物が多いからこのひとはそのまま四国を一周するのだろう。こちらは先が長い。世間は広いから、私同様にお遍路の手段にカブを選ぶひとはいるのだ。カブでロングツーリングをする際に不満な点を挙げるとすれば、ギヤが3速までしかないことだ。もう一速あってくれたら平穏に走れるものを。高速走行すると、といってもカブでは80kmまでしか出ないが、エンジンの回転が上がりすぎて、うるさくてしかたがない。タイカブはどうなんだろう。ハンターカブは4速あってもトップがオーバートップにはなっていないらしくて、うるささは変わりないようだ。
 この日はバイクの遍路によく会う日で、カワサキのバルカンとヤマハのマジェスティーにも遭遇した。

2007年10月 5日 (金)

カブでお遍路5

 「Dust to grory」という映画を観た。アメリカ大陸の西海岸から南へ細長い半島が突き出している。この映画はメキシコ領のこの半島を舞台に60年代から開催されている「バハ カリフォルニア1000マイルレース」の記録映画である。題名は「塵の果ての栄光」とでも訳したらいいのだろうか、文字どおり砂や埃にまみれた荒くれ男達が二輪、四輪で数日間突っ走る自動車レースだ。なにしろ追い抜く時には前の車に軽く追突するというのがルールだというのだから、その荒っぽさが想像できるだろう。この映画では、大金をかけて改造した自動車やバイクでゴールをめざして悪戦苦闘する選手や、それを支えて大会運営に関わる人々の営みが描かれている。
 こんな砂漠を1600kmも走って何が楽しいのかと思うひとは多いだろう。しかし、世の中にあまた有る祭りや競争といったものはたいてい無目的、無報酬なのではないだろうか。宗教的な装いを纏ってはいても、祭りで騒いでいる参加者はそれに無頓着なのが普通だ。祭りはその目的が馬鹿げているほど面白い。
 自動車やバイク、あるいはレースに興味があるひとなら誰でも命がけのレースの映像には引き込まれてしまうだろうが、私はだんだんと寒々しい気持ちに捕らわれてしまった。メキシコのなかでも辺境の最貧地帯の村を一台数万ドルも改造費をかけたモンスターマシンが駆け抜けていくシーンが出てくる。経済格差と言ってしまえばそれまでだ。カソリックの国は宿命論が支配的で自助努力が足らないから経済発展をしないのだというひとも多いだろう。しかしたいていの中南米の国はIMFや世界銀行の高利のひも付き融資でがんじがらめになっているという現実がある。原材料供給国にして同時に製品消費国。どこかで聞いた話ではないか。そう、昔のインドとイギリスの関係そのままだ。レース開催によって落ちるお金で地元は多少なりとも潤おうんだから多少のことには眼をつむれ、というひともいるだろう。だが私は猛スピードで駆け抜ける車に轢かれて亡くなる子供もいるのではないかとつい心配してしまう。
 その点お遍路は気楽だ。そういう危惧やうしろめたさの呪縛からは解き放されている。なにしろ遍路は地元の人々と同等か、時にはそれ以下なのだから。坊主や行者は目的に向かって修行しているから尊敬の眼差しで見られるのであって、修行していなければ乞食と一緒なのだ。遍路の装束は冥土に向かう死に装束なのだという。


2007年9月27日 (木)

お遍路4

 十一番藤井寺から十二番焼山寺への道は苛酷という言葉がまさにぴったりする道だ。遍路前半では有名な難所で、昔は死者も出たという。厳しい登りではカブの3速が使えないことがしばしばある。カブは自動遠心クラッチだから、3速から2速に落とす時にはよほどうまくやらないとエンジンブレーキがかかって失速する。ところがそれを回避するテクニックがあるのだ。カブに一生乗り続けてもこの技に気付かず死んでいくひとも多いだろう。実はカブはチェンジペダルを踏んでいる間はクラッチが切れる構造になっている。そこで一瞬アクセルを煽ってペダルから足を離せば滑らかにチェンジできるのだ。この技は四輪でいうヒールアンドトウという高等テクニックだが、普通のクラッチ付きの二輪でやるのは簡単だ。
一度山を越えて谷沿いの集落を抜け、さらにもう一度山を登る。曲がり角には必ず焼山寺の方向を示す案内版が立っているから、迷うことはない。お遍路に限って高価なナビは必要ない。案内版を建ててくれた先人の苦労に感謝しつつ先へ進む。
 こうして人家もない山奥を走っていると、昔からこうだったと錯覚するひとが多いはずだが、わが国の山野から人の姿が消えたのは明治以降のことなのだ。いや、時代はもっと下るかもしれない。とどめは安い輸入材の流入だっただろうが、戦後の農政の無策がこれに追い討ちをかけ、零細な農家が離散していった結果に違いない。
 私には東京から信州の過疎村に移住した友人がある。かつてその友人の家で、その村の編集になる村の歴史の本に載せられた大正時代の写真を見て驚いたことがある。今は昼間でも外を歩く人の姿を見ることが稀な村の道に人がウジャウジャとあふれていたのだ。この村びと達はどこへ消えてしまったのだろうかと暗澹たる気持ちにとらわれてしまった。農村を疲弊させ、都会や工業地帯ばかりを興隆させる政策の下、それらの地域に安い労働力として狩り出されていったのだろう。農業経済学者の飯沼二郎は日本の農業を破壊したのは戦後の農地改革だったと述べている。そうでなくても狭い国土の平野部をさらにミクロの単位まで細分化したのがコントロールがきかなくなった原因なのだとも。
 目指す焼山寺は標高700mの山の頂付近にある。寺へ向かう最後の登りで30代の男性と思しき歩き遍路を抜いた。寺まで上がってみると広大な駐車場が有り、結構な台数の自動車が停まっているのに驚く。十一番藤井寺からここまで一台の車も見かけていないのに、これだけの車があるのはどういうことなのだ。この謎は帰り道で解けた。殆どの車は逆コースで十三番側から上がってくるのだ。大型のバスは10分程下った所にある集落に停まっており、マイクロバスがピストン輸送をしている。正直に十一番から登ってくるのは歩きとカブだけなのか。焼山寺の境内でなかなかキュートな女性の歩き遍路を見かけた。こんなひとがひとりで山のなかを歩いてきたのかと不思議な気持ちになったが、もっと驚いたのは寺から下る途中に往路で追い抜いた歩き遍路とすれ違ったことだ。追い抜いたのは寺の遥か手前だったはずだが、私が参拝しているあいだにもう寺の真近にまで迫ってきていた。本当に歩きは速い。

2007年9月20日 (木)

お遍路3

 徳島市に「珈琲美学」というコーヒー店がある。ロードサイドのレストランといっていいほどの規模なのだが、メニューの主軸となるものはコーヒーで押し通している。木造りの天井の高い空間はいつ訪れても気持ちがいい。7〜8mはあろうかという長いカウンターの中ではラグビーの試合に出てくるような巨大な薬缶でいつもお湯が沸いている。いつも笑顔を絶やさないチーフバーテンダーは開店当初から変わらない。
 第二回目のお遍路で十二番から十七番までを廻り、暑さでくたびれた体を休めに、またこの店にやってきてしまった。来るたびに思うことは、なぜこの手の店が岡山で成りたたないのかということだ。コーヒーとベーグルサンドで950円という値段が徳島という地方都市で通用している。しかも店はいつも大賑わいだ。実はこの店のコンセプトを剽窃した「そっくりさん」が四国全域、北九州、はたまた関東にまで出現している。松山の珈蔵や頓挫して今は別の業態で営業している岡山の児島線沿線の大型店なども「珈琲美学」の亜流と言ってさしつかえないだろう。徳島あるいは四国という地域が食文化に関して一種独特のものを持っているのかもしれない。
  一世を風靡した小僧寿司も徳島には入り込めなかったという。香川の「骨つき鶏」はよその県でまねするひとが出てもたいてい失敗するらしい。「骨つき鶏」は香川でしか受けない業態なのだろう。こと流行に関しては後進的であるが故に隆盛であり得る業態というのは必ずあるはずだ。「笛吹けど踊らず」という県民性に起因するのかどうなのか知らないが、岡山のひとはもうコーヒーに高いお金を使わなくなっている。 

2007年9月15日 (土)

カブでお遍路2

 一番札所から十番までは、わりあい狭い地域にまとまっている。この中で印象強く残っているのは切幡寺だ。空海が修行中にこのあたりに立ち寄った際に数日間滞在した。その間、宿として家を提供して世話をした村の娘がいた。空海がまたその地から出立する時に布を所望したところ、その娘は自分が機織り中の布を途中で切って差し出したという話が残っている場所だ。後世のひとがその場所に寺を建てたのだという。空海とその村娘との間のロマンスさえも想像してしまいそうな、山裾にひっそりと建つ寺だった。奇しくも、この山の向こう側には結願の寺、大窪寺があるのだ。
 一本の県道を行ったり戻ったりしているうちに十番札所までは順調に消化していく。九番札所法輪寺の門前に小屋掛けして餅を売っているひとがいた。土産にしようと六ケ入りのプラスチックケースに入った草餅を買った。ところがそれを帰りのフェリーの中で食べてしまったのだが、意外なほどうまかった。味に関してはあまり期待はしていなかったのだが、もう一度寄り道してでも買いに行きたいくらいだった。今どき本当に草の匂いのする草餅になかなか当らない。色粉で色を付けただけのようなまがい物が多いなかで本格派に遭遇すると嬉しくなる。
 お遍路にはこういった素朴な楽しみも隠されている。この先どんなものに出会えるか楽しくなってきた。

2007年9月 6日 (木)

カブでお遍路

 カブで遍路をはじめた。バイクに詳しくないひとのために書いておくと、カブとはホンダ製のスーパーカブという小型バイクで、50ccと90ccのエンジンを積んだものがある。私のは90ccだ。新聞配達やそば屋の出前に使われているバイクと言えば判り易いだろう。ところがこれがなかなかの乗り物なのだ。ホンダの創業者、本田宗一郎が作ったもので、その後幾度かの変更はなされてはいるものの、基本的な設計に変わりはなく、累計生産台数は二輪、四輪を通じて世界一を誇っている。
 スーパーカブがいかにすぐれたバイクであるかは後に述べるとして、話をお遍路に戻そう。遍路のやりかたにもいろいろある。あくまで歩きにこだわる本格派。自動車やバイク、あるいは自転車でまわるひと。集団でバスに乗ってまわるひとも多い。バス派のなかには有名な寺だけを廻っていく「飛ばし遍路」というふとどきな連中もいるらしい。こんな中でバイク、しかも小型のカブを撰んだというのにはちゃんと私なりの理由がある。歩きは体力的にも厳しいものがあるし、仕事を持っている以上、休みを連続して取ることができない。お大師さまには申し訳ないのだが現代のエンジン付きの乗り物に頼るしか手がない。しかし少しでも歩き遍路のひと達の苛酷さに近づこうとして撰んだのがカブだったというわけだ。
 歩きのひと達には本当に頭が下がる思いがする。私自身かつて山登りをよくやっていた。登山を趣味にするひとなら、つい「平地を歩くのだったらたいしたことはない」と言ってしまいそうだが、問題なのはその距離なのだ。総距離1200kmというロングトレイルは世界を見渡しても、そうは存在しないらしい。すべてが平地ではなく、中には山奥の札所もある。長丁場になるから途中体調が悪くなったり、悪天候に行く手を阻まれたりすることもあるだろう。それを最後の結願へ向けて歩き続けるのだから、相当の強い意志と体力がなければ完遂することはできない。第一番札所の霊山寺へ行ったことのあるひとは一様に驚くはずだ。八十八ケ寺をすべて廻ったらなにか褒美がもらえるとか、誰かに強制されたとかいう訳ではないのに全国からうじゃうじゃと人が湧き出るように集結してくる。そんな中でもやはり歩きのひとは光っている。背中に背負った大きな荷物を見ればすぐに「歩き」とわかる。周囲のバス遍路の人達から尊敬のまなざしで見られているし、本人達もある程度それを意識しているようでもある。