グルメ・クッキング

2009年10月14日 (水)

微糖の時代

微糖の時代
このところ缶コーヒー市場は微糖分野が主戦場なのだそうである。アサヒ飲料のワンダシリーズや日本コカコーラのジョージアに微糖のものが続々と登場している。この傾向は昨年あたりから顕著だが、今年はまた夏が冷夏で売り上げが伸びなかったのを微糖で取り戻そうという各飲料メーカーの動きが激しい。しかしなぜ今微糖なのか。紙パックやペットボトルの分野でも同じ微糖シフトの様相を呈している。これはコーヒーだけの話にとどまらず、すべての加工食品が甘くなっているのではないかと私は疑っている。

最近、家でおでんを作ると、べつに甘みを加えているわけでもないのに妙に甘くしあがる。またベーコンの入ったスパゲッティカルボナーラやオムレツを作るとこれまた奇妙な甘さが舌に感じられる。これはいったい何なんだと思いつつも、しばらくは原因がわからなかった。しかし最近になってやっとその原因が私にもわかってきた。材料に問題があるんだと。おでんならごぼう天とかの水産練り製品、オムレツならベーコンを疑わないといけない。これらすべてに生産段階で甘みが加えられており、調理の際に安っぽい甘みが出てくるのだ。事実これらの食材の成分表示にはたいていステビア等の甘味料が書かれている。

 よくもやりやがったな、いらぬお世話だというのが私の見解だ。いつからこんなことになってしまったのか。味覚の幼児化に他ならないではないか。売れるためには何でもするというのがナショナルブランドの戦術だからしかたないのであろうか。本物の味が欲しければよそで買えとでも言う仕打ちだ。

 最近、明石の魚の棚商店街で買い物をした。余談ではあるが棚はもともと店という字だったと思う。ここで買った水産練り製品はどれも甘くはなかった。本当の味を求めるのなら明石まで行けというのでは残酷ではないだろうか。微糖への傾斜をやめて食品本来の味にナショナルブランドのメーカーが舵を切らなくてはいけない。簡単に考えてはいけない。彼らのやっていることはわが国の食文化の破壊なのだ。

 あらゆる食品に含まれている甘味に監視の眼を注がなければならない。ごくごく大衆の方は既に騙されてしまっているから、その安っぽい甘みに気がついていない。まわりじゅうが微糖だらけなのに「甘さ控えめのケーキじゃないと嫌」というひとが多いというあたりに一般人の味覚に対する鈍感さが現れているのではないだろうか。

2008年10月31日 (金)

備中.倉敷あんこめぐり

備中.倉敷あんこめぐり
成羽に金平饅頭という菓子があるということを知ったのは20年程前のことだった。そのあたりの出身であった友人(故人)が帰省した時に土産として持ってきてくれたのが、それを食べた最初だった。薄い生地の中にたっぷりの白の漉し餡が詰まっている。たったそれだけのどこにでもありそうな饅頭なのだが、餡と皮のバランスが絶妙だ。友人がいなくなってから、時折思い出しては成羽まで車を走らせるようになってしまった。
今回の脚はメルセデスE320。友人の好意に甘えて使わせてもらえることになった。現行型より一つ前のW124
型である。私の車から乗り換えてまず思ったことは、静かだということ。これはあたりまえ。私の車が4台買える値段なのだから。悪路を走っても嫌な振動は伝わってこない。高速道路に乗り入れても全く安定した挙動を示す。VWのような車のほうから無理やり強制されているような直進性ではないものを見せてくれる。このあたりはFFとFRの駆動方式の違いによるものだろうか。正直言って、岡山道あたりで遅い流れに乗って走っているだけでは、その良さは体感できなかった。山陽道に乗り入れて法定速度の1.5倍以上で走って初めてその真価を発揮する車なのだろうと思った。そしてその時に効いているのは日独の金属加工の精度の違いのはずだ。要するに脚回りにガタが無い。こう言うと、日本でもそれくらいの加工は出来るよ、と言う人が必ず出てくる。それは確かに出来る。だがしないのだ。そこで出てくるメーカー側の言葉はいつも決まって「お客様はそこまで求められていませんから」というものだ。確かに日本人が「走る、曲る、止まる」という自動車の基本性能よりもオモチャっぽい仕掛けや内装の豪華さを求める民族であることは明らかであるが。
 三宅製菓はまったく今っぽくない作りだ。ロの字の型地に硝子ケースが並んでおり、その中に店員が居て、客の応対もし、客の買い求めた品を包んでくれる。その店員がまた、この上ない程無愛想なのだ。まあそれ以上のものを求めてみてもしかたがないし、おいしければいいのだろう。主力商品は金平饅頭と神楽最中。最中は進物用として買うのなら、少々値段は高いが面神楽最中をお勧めする。皮が神楽の面の型になっているからだ。だいたい、わが県内にはユニークな型の最中が多い。カブトガニ型や天文台型はその際たるものだろう。どれも田舎らしく、あんこたっぷりなのが好ましい。
 最中に関しては、私は言いたいことがある。このところ流行している、皮と餡を別々に包装して客に組み立てさせる式のものを問題にしたいのだ。あれは和菓子の伝統を冒涜するものでしかないと私は思っている。わが国は高温多湿の国。皮と餡の全体がしっとりと馴染んでないといけない。どうしてこんな変な最中が登場してきたかというと、その背景には社会全体の甘味離れがある。消費者の嗜好の変化におもねて菓子屋が砂糖の使用量を減らす。すると餡から水分が流れ出す。皮が湿気るのを嫌って考え出された苦肉の策が餡と皮を分けるという方法だったのだ。世の中、趣味のいい人や伝統文化に理解のある人ばかりではないから、こういった邪道の菓子も支持されるようになってきている。嘆かわしいことではあるが。
 それはさて置き、買い物の最中に売り場に設置してあるテーブルの上にパンフレットが積まれているのが目にとまった。そのタイトルが変わっている。「倉敷、備中あんこめぐり」というものが。副題は「あんこでつなぐ、ふるさとの味」。続く。

2008年10月 4日 (土)

奥出雲ワイナリー2

奥出雲ワイナリー2
奥出雲にはどう行ったらいいのか。ナビで調べてみたら、中国縦貫道の東城経由で山越えして行こうとすると7時間かかると出た。ところがすべて高速道を使って松江まわりで行くと4時間。地図上で見ると遠回りの行程のほうが結果的には早いと分かった。東城から先の道が酷いことは10年程前に絲原家住宅を見に行った時に通ったから知っている。絲原家は、この地方のタタラ製鉄の中心的な役割を担っていた家だ。あの昔の街道も風情があるので捨て難いが、今回は時間に余裕が無いのであきらめた。岡山から山陽自動車道、岡山道、中国縦貫道、米子道、山陰道、松江道と高速使いっぱなしで走る。
着いた木次町は日本の田舎のどこにでもあるような町だった。町に一軒のスーパーの駐車場に車を停め、松江から来て我々に合流する友人と連絡を取る。ワイナリーは町からさらに登った山の上にある。標高差にして50mくらいだろうか。不思議なことにビニールの屋根がかかった葡萄棚が山間に現れ、丘の上にショップと見学施設、カフェが見えてきた。とりあえず昼なのでカフェで昼食をとることにした。ワンプレートのランチで1500円。充分満足できる内容だった。帰りは運転しなくていいということなので、私だけがワインを飲んだ。白は今ひとつ酒になりきれていない感じがした。赤はスパイシーというかスモーキーな香りもして、好みのタイプだった。私はワインのテイスティングをする時に「霧に包まれた早朝の森林のような香り」などという白々しい表現はしない主義だ。体験したこともないようなことを文学的に表現してみてもはじまらないと考えるからに他ならない。
 このワイナリー、不思議に感じた点が二つある。あれだけの葡萄畑で生産量がまかなえるはずがない、という点と醸造施設を一切見せてないということだ。消化不良の感が残った。
 中国地方のワイナリーはワインファンから期待されているのだから、もう少し頑張って欲しい。では何故中国地方なのか。中国地方には、わが国では珍しい石灰岩台地が存在しているから、というのがその理由だ。わが国の土壌はほとんどが火山灰がもとになった酸性土壌である。しかし、中四国には幸運なことに、カルスト台地が拡がっている。こんな千載一遇のチャンスを逃す手はないではないか。
 ワインの本場のフランスでも高品質のものを産出するワイナリーは石灰岩質の場所に位置している。ワイン向きのいい葡萄はどうやらアルカリ性の土壌から生まれるらしい。こう言うと、土質がそんなに作物に影響を与えるのかと訝しがる向きもあるだろう。しかし、土質が重要なのは山形特産のだだちゃ豆の例を引けば充分だろう。同じ豆をよその地域に植えてもあの味は出ないのである。
 私はここで一つの提案をしたい。岡山県の県北、草間地区に拡がる石灰岩台地にワイン向きの葡萄を植えて、奥出雲ワイナリーへ納入するというような道筋は実現できないものだろうか。この架空のプロジェクトが稼動すれば、類稀な国産ワインが実現するのは必定なのだが。

2008年9月27日 (土)

奥出雲ワイナリー

 「食」の安全が脅かされている。産地偽装、日付改竄、危険物質混入と枚挙に暇がない。まさに「何でもあり」の様相を呈してきている。このあとまだどんな問題が噴出してくるか誰にもわからない。これでは食品の製造、流通に関係する者すべてが、全国民から疑われているような状況になっていると言っても過言ではないだろう。
 こういった問題が発生する原因はどこにあるのか。私は世間一般ではあまり論議されない点を原因として挙げたい。それはひとつには日本人の「食」に対する異常なまでの潔癖症である。こういうことを言うと、潔癖症のどこが悪いのだと反論されそうな気がする。新鮮なもの、安全なものを求めようとする心根が「食」の安全を増進こそすれ、それを阻害することはない、というのが通念だろう。ところが食品の生産や流通に関わる人間から言わせると、これはかなり厄介な問題なのである。たとえばバターケーキの場合、焼いて2、3ケ月大丈夫なものもある。しかし賞味期限を3ケ月先にすると誰も買わないのだ。そこで賞味期限を1ケ月先にしておいて、張り替える。この件で摘発された業者が実際にいるが、私は気の毒でしかたがない。
 なにしろ日本人は世界に冠たる割り箸を使う民族だ。これほどわが国民の潔癖症を指し示す事例はないだろう。スーパーの棚の奥からできるだけ日付けの先の牛乳を引っ張り出す。ヨーグルトやインスタントコーヒーの
封印の紙を半分だけ剥がして、全部は取り去らない。産地のブランド化にも熱心だ。讃岐うどん、札幌ラーメンに始まって、関サバ、魚沼産コシヒカリ、岩手県産白金豚。最近ではイベリコ豚なんていうものまで現れた。
 こういうことを異常事態と考えない、また食品偽装の遠因になっていると気がつかないということにこそ問題があると私は考える。
 産地についても、各食品にブランドがあり、フルーツトマトなら高知の奥谷地区の何々さんの育てたもので、棚の何段目のものという指定まであるのだから驚く。メロンの生産は手が込んでいる。土はよそから運んできたものを使い、しかも何年かに一回はすべて入れ換える。単一品種の連作による弊害を防ぐためだ。農薬や化学肥料の使いまくりで、まるで宝石であるかのように手塩にかけて育てる。その手のかけようがいかに凄いかを示す逸話がある。ある品評会で審査員がこう言ったというのだ。「鈴木さんちは何かあったかなあ」マスクメロンの網のかかり方が去年までと違うのを見とがめたのだ。傍から他の審査員が「お嫁さんの体調が悪いらしいですよ」「そうか」。しかし、これ程までに手をかけて育て、高価に取引きされるマスクメロンが本場イランで粗放的な育て方をしたものに味でかなわないというのだから皮肉な話ではないか。日付けの先の牛乳を求めてスーパーのトラックが深夜の乳業メーカーの駐車場に集結する。その圧力に堪えかねた工場長は0時以前から日付け表示を換えてしまう。どうせ同じ魚なのだからと、対岸の八幡浜に揚がった魚までが関サバとして流通してしまう。一度確定したブランド食品以外を認めず、単一の食品に群がるという集中豪雨的な消費者行動はもうやめなければいけない時期に来ている。世界中に飢えに苦しむ人がいることを忘れてはいけない。
 本当に日本人は産地や鮮度にこだわり、そのこだわりに適ったものを食しているのか。私はそうではないと考えている。バーチャルのブランド食品が一人歩きしているだけだ。とれとれ魚や朝摘み苺とスーパーのポップはウソだらけだ。「誰かうまい嘘のつける人を探すのよ〜」歌謡曲の歌詞ではないのだ。「嘘でもいいから、体にいい物を食べている実感に浸らせて欲しい」という消費者側の騙され願望と「ゼニのとれる商品を作れ」という生産者側の不毛な努力のはざまに発生したのが一連の食品関連の事件ではなかっただろうか。
 少しでもまともな「食」への関わりをしている生産者はいないのかという思いを私は常に抱いている。いたずらに企業規模を拡げず、製品の品質で大メーカーと勝負する。こういった活動を地道に進めている食品メーカーも数は少ないが、日本各地に存在する。秋の一日、山陰へそうした企業理念で運営されている食品関連企業を訪ねるドライブをする機会があった。行く先は島根県木次町。ここには奥出雲ワイナリーと木次乳業という二つの施設がある。奥出雲ワイナリーは最近とみに名声があがってきている。わが国のワイン生産農家は東日本に集中しているが、西日本にも僅かながら点在している。ここもそんな中の一軒である。かたや木次乳業は良質な牛乳とチーズの生産をするメーカーとして評価が高い。
 こんな二つの食品メーカーが山陰の過疎地帯に何故存在し得ているのかというところに以前から興味があった。しかし訪問の機会はなかなか訪れなかった。奥出雲ワイナリーと私の店の定休日が同じということもあったし、自動車で行くと飲めないという関門が存在したのだった。しかしこの度やっと実現の運びとなった。店を木曜日に休めたのと、お酒を飲まない友人が運転手を務めてくれることになったからだ。続く。

2008年9月23日 (火)

カフェロッソ3

喫茶室は天井が高くて広い。中海に面した側は全面硝子で、開放的な空間になっている。窓の外にもテラス席がしつらえられているが、今回はまだ暑い季節なので室内の席を選んだ。カプチーノとフォカッチャ、それにフランボワーズだったかカシスだったかのムースの入ったケーキを頼んだ。カプチーノは店主自ら作ってくれたが、運ばれて来たものを見ると象の絵が上手に描いてあった。私はドリップでこそコーヒーの味は引き出せると考えているので、エスプレッソにさして興味がない。省力化の道具でしかないとすら考えている。以前うちの店にもエスプレッソマシンがあったが、その時でも一度も絵を書こうと思ったことはなかった。そのことによって味がよくなるわけではないからだ。最後に一番少ない量のエスプレッソを頼んだ。確かにいい状態で出てきたが、惜しむらくはもう少し酸味をきかせてもらいたかった。本場のエスプレッソは酸味があるからこそ苦味に強さが出ているのである。これは酸味のないリンゴでジャムが出来ないのと同じ理屈だ。

2008年9月21日 (日)

カフェロッソ2

カフェロッソ2
エスプレッソを上手に淹れるのは非常に難しい。粉の量、粉を手で圧縮する圧力、湯の圧力等微妙な差でも味は変わってくる。クレマと呼ばれる泡がきれいに出来上がっていないと、飲む前から不味いとわかるくらいだ。 ロッソのロケーションは素晴らしいの一言だ。国道9号線に面していて、店の背後には中海の一部が運河のようになった水面が広がっている。松江市周辺には宍道湖沿いに珈琲館や梢庵等の湖水を眺めを売り物にした立地の喫茶店はあるが、この安来、米子界隈ではこの場所だけである。赤い看板で店を見つけて駐車場に車を乗り入れる。駐車場の隅にルノー.ルテシアが停まっていたが、従業員かあるいは経営者のものだろうか。これはぜひともフィアットかアルファロメオあたりにしてもらいたいところだ。入り口脇に小さな焙煎室があり、5kgくらいの小型の焙煎機が据え付けられている。

2008年9月15日 (月)

カフェ ロッソ

カフェ ロッソ
島根県安来市のカフェ ロッソへコーヒーを飲みに行ってきた。安来はやすぎと読むのだそうで、やすきは間違い。どじょう掬いの踊りと安来鋼で有名な町である。古代のたたら製鉄と現代の金属産業がどう結びつけられるのかは知らないが、現在も日立金属の巨大な工場が市内にあって稼働中である。
さてカフェ ロッソであるが、ロッソは赤。イタリアというと赤を連想する。トマトの赤、太陽の赤、フェラーリの赤。赤が一番似合う国でしかもエスプレッソコーヒーの本場だ。 このカフェは安来市内だ長く自家焙煎の珈琲店として名が通っているサルビア珈琲店の支店として出店されたものらしい。御子息が責任者なのだが、この人はエスプレッソマシンを操って、いかに美味しいコーヒーを抽出して、それをスマートに提供するかの技を競う国際大会で上位に入賞したひとである。

2008年6月28日 (土)

炭焼コーヒー

炭焼コーヒー
久しぶりに聞いた。「この店のコーヒーは炭焼ですか。」そう言えば、最近炭焼コーヒーという言葉をとんと聞かない。一般消費者の口の端に登ることも稀だし、コーヒー関係の専門誌の記事になることもなくなった。あんな邪道の焙煎法が廃れるのは時間の問題だったのだ。ひと昔前は高級コーヒーの代名詞のように思われていて、コーヒー店側が「うちのコーヒーは炭焼ではありません。」と言うのが憚られるような風潮さえあった。では何故、炭焼コーヒー豆は深煎りで、浅煎りの豆は無いのかと質問すると、答えられない客が殆どだったのだが。
 遠赤外線の効果はさて置き、うなぎの蒲焼きではあるまいし、コーヒー豆が炭で焼いてうまくなるはずがない。鰻を焼くのに備長炭が好んで使われるのは、団扇の使い方次第で火力が自由自在に操れるからだそうである。だがコーヒーのように微妙な火力調節が必要なものに炭火は向かない。食品関係の雑誌等が取材に来る時だけ炭火を使っていた自家焙煎店も多かったのではないかと私は推測している。
なにより不思議なのは国内大手の焙煎メーカーの品揃えにも炭焼コーヒーがあることだ。一日に何トンもの豆を焙煎するのに、本当に炭を使っているのならたいしたものだ。そのメーカーのハワイの農場の責任者だった人物が、在任中に高級品のハワイコナを別の豆で産地偽装していたと暴露した事件があったことからすると、あるいは炭焼も同様のことと理解してもいいのではなかろうか。
 では何故、炭焼と言えば深煎りなのだろうかという疑問はまだ残る。浅煎りではいけないのか。結論から言えば、いけないのである。豆屋としては深煎りの豆は素人には判りづらい理由で高い値段設定をしなければならない。そこで豆業界の頭のいいひとが考え出したのが炭火焙煎だったというわけだ。「奥さん、この豆は炭火で焼いているんですよ。手間ひまかけてます。だから、ホラ指で押して潰れるくらい豆の芯まで火が通っているんですよ。備長炭特有の遠赤外線効果って奴ですかね。」などともっともらしいことを言うと消費者は納得する。
 コーヒー豆を煎ると、本来豆の中にあった水分が蒸発する。ところがコーヒー豆は重量で取引きされるものなので、深煎りの豆はその分値段を上げないと豆屋としては困るという裏事情がある。消費者にそれを正直に言えばいいのに、隠ぺいする悪い体質が業界内部にあるからやっかいだ。
 こういうことを書き綴っている間にも、ある大手メーカーの炭焼コーヒー偽装事件が報道された。炭焼コーヒーとして出荷されたものの中にガス焙煎の豆が混ざっていたというのだ。またあの聞き飽きた「あってはならないことが起ってしまいました。」という釈明の言葉を聞かなければならないのだろうか。
 バブル期に業界誌を賑わしていた炭焼コーヒーに関する記事はすっかり姿を消してしまった。当時は豆に照りを出すためにバター焙煎などという邪道の極地の焙煎法まであった。嘘の多いこの業界のこと、裏にはなにかの事情があると考えるほうが自然だ。私はこの背景にはスターバックスを中心としたシアトル系のコーヒーチェーンの躍進があると睨んでいる。エスプレッソがフィルターを通したコーヒーより美味しいはずはないのだが、ああも低価格で大勢の客を集められてしまうと従来のコーヒー専門店は立つ瀬がなくなってしまう。自家焙煎、ネルドリップ、炭火焙煎、すべては水泡に帰してしまったではないか。 こんなにも脆弱な体質なのである、コーヒー業界は。 

2007年12月27日 (木)

和菓子

 金沢、諸江屋のお菓子をいただいた。白い落雁の中につぶあんが入ったものだ。森八と並ぶ老舗の菓子だけあって、その味は絶妙だった。あんがしっとりしていて、それよりも少し乾いた落雁とのマッチングがよい。
 「和菓子つくりの奥義は湿度との戦い。どうまとめるかが苦労するところです。」とはかつて岡山にあった備前和泉という和菓子屋の御主人の土本さんがよく語っていた言葉だという。土本さんは当時、当地の和菓子つくりの第一人者と目されていたひとである。
 わが国は湿度が高い。欧米への旅行から帰ってきて、日本の空港で飛行機のドアが開いた時に機内に流入してくる湿気に満ちあふれた空気に触れた時、旅行者は「ああ日本へ帰ってきたんだ。」と実感するのだそうである。その湿気をうまく利用しなければ、わが国では菓子も料理も作れない。さきほどの落雁も、型に入れてぐずぐずしていると固まってしまって収拾がつかなくなる代物だ。すぐにギュッと押さえてしまわないといけない。
 津山の鶴声庵の御主人は名人の誉れが高い。この店には「花の雫」という松露があるが、この菓子は逆に湿度を避ける意味で、梅雨時から夏場にかけては作られない。私自身、以前に何も考えずにそういった季節に注文の電話を入れて「こんな季節に作っているわけがないでしょうが」と怒鳴られて、縮みあがったことがある。和菓子つくりに真摯に取り組むとああなるのだろう。尊敬こそすれ、嫌な思いは全くしなかったし、わが身の不明を恥じたものだ。
 湿気と和菓子の関係で、なにか勘違いをしているのは滋賀県のT店の最中である。備前和泉の御主人の言に従えば、最中のおいしさは餡の水分の影響を受けて皮が少ししっとりしたところにあるはずだ。口の中でホロッと崩れる感じと言えばいいだろうか。ところがT社のものはこれとは全然違う。皮と餡が別々になっていて食べる人自身が組み立てて口にするようなしくみなのである。噛むとホロッどころかパリッという音がする。しかし世の中よくしたもので、これでないといけないと思うひともいるのである。悪貨は良貨を駆逐するとは言うが、今後はこれが主流になるかもしれない。良い趣味だけが後世に伝わるわけではないのだから。
 あるお寿司屋さんの御主人がかつて嘆いていた。所謂成金のひとがその老舗寿司屋さんに来るようになって、「もう少しいい海苔を使わなきゃ。」と忠告するのだそうだ。そのお店はもともと最高級の海苔を使っているのだが、お客のほうはコンビニのおにぎりや回転寿司の妙に歯ごたえのいいものを本物の海苔と勘違いしていたらしい。「お客さんだから、説教するわけにもいかないしね。」と苦笑いしていた。
 ではどうして餡と皮を別にして売る菓子屋がでてくるのだろうか。それは戦後の日本人の異常なまでの甘味離れと表裏一体の関係にある。消費者の甘味離れに合わせて菓子屋は餡から砂糖を減らす。すると餡から水がしみ出す。砂糖には甘味を加えるという機能以外にも包水性という機能もあるのだ。最中の皮がグチャグチャになっては困るというので、苦肉の策として編み出されたのが皮と餡を切り離すという珍商法だったのだろう。いやいや、砂糖を減らしてもトレハロースを入れれば水は出ませんよ、という菓子屋もいるだろう。
 一度嘘を言うと、その嘘を糊塗するためにまた嘘をつかなければいけなくなる。現在のこの国の食品業界は全般的にこういったジレンマに陥っているのではないか。どこかで軌道修正をしなければ、何が本当で何が嘘なのかわからなくなるところまで来ているような気がしてならない。


2007年12月20日 (木)

またパン屋が

 今日また、私の通っていたパン屋が閉店してしまった。行く店行く店が次々と閉店していく。世代交代なのだから仕方ないことなのかもしれない。しかし通い慣れた店が無くなるのはさみしい。この前は大安寺で家族でやっている店だった。自宅の一部が工場になっていて、おやじさんがパンを焼き、奥さんと娘さんかあるいはお嫁さんが売るといった純然たる家内工業的な店である。それにも拘わらず、ここの食パンは絶品だった。他の菓子パン類はあまり冴えない。食パンにしたって、値段から言ってそれほどいい材料を使っていたとは思えないが、ずっしりと重くて歯ごたえがあった。なにより客に媚びずに甘くないのがよかった。当地では「あそこの店の食パンはおいしい」と聞いて、買いに行ってみるとたいてい甘くてがっかりすることが多い。パン職人の友人に訊いてみても、パンを上手に膨らませるのは至難の技なのだそうである。そのうえプロには百発百中の完璧の技が求められる。素人のように、「今日は上手に出来た」というのでは困るのだ。あるいはブリオッシュは得意だがクロワッサンはちょっとどうも、なんていうのは。
ところが、プロのなかでも生地作りが不充分で底が平らなバゲットを売っている店もある。それどころか、岩のように堅い食パンを何十年も売り続けている喫茶店だってあるのだ。客のほうも堅いのは天然酵母使用の証だと信じているのだから始末が悪い。その点、大安寺のK製パンのおやじさんは違った。熟練の技というのだろうか。無名のままで終わってしまったが、あの二斤半食パンこそ百発百中の味だったと断言できる。
 それにつけても疎ましいのは雨後の筍のように出来る新興のパン屋だ。いつ姿を消すのか分からないような目先が変わっただけの菓子パンのバリエーションの多さに眼を惹かれて新しい店へ日参するひとの何と多いことか。それよりも基本の技術に眼を向けるべきだというのに。所詮パンは日本人にとって嗜好品だというところにその因はあるのだろうか。
 同じような意味で医学部前のF店も実力派だった。ここのクロワッサンは本当のバターの香りがした。代用油脂ではない。しかしなかなかそういったことは評価されないのが世の常だ。現在の基準ではあの店の販売スペースはあまりにも狭すぎた。たくさんの菓子パンや調理パンが山のように並んでいないと満足しないのが昨今のこの国の消費者だ。こういった日本人の消費傾向は一向に改まる様子は無く、年々ひどくなるばかりだ。
 スーパーマーケットの棚にもありとあらゆる商品が並んでいる。ヨーグルトやプリンだけでも数十種類は揃えられている。自動車産業を例にとってみてもメーカーはたくさんの種類を揃えていなければならない。軽から超高級車まで「切れ目のないラインナップ」が求められる。どんな家族構成、予算、ライフスタイルの客が来ても対応できなくてはいけないらしい。その競争に勝ち抜いたメーカーが世界に冠たるトヨタ自動車というわけだ。
 トヨタはそれでいいだろうが、日本全体を見た場合、この生産現場での無駄は看過できないほどの規模だ。日本国じゅうで作っては捨て、作っては捨ての無駄をしているのだから、国際競争力などつきようがない。バブル崩壊の痛手から今だに立ち直れないのも当然だ。なにしろ割り箸文化の国なのだから。
 大多数の消費者は見かけ倒しの店、見かけ倒しの製品を選択するから、まともな店ほど淘汰されて潰れていく。「うちだけはまともです。」という嘘が上手な店だけがメジャーになれるというのは、今回の食品をめぐる一連の偽装事件を見れば明らかだろう。
 この国において、見かけ倒しの店が次々と出来る背景には、ドイツのようなマイスター制度が無いことがあるのではないだろうか。あるいは職能団体のユニオンの不在があげられるかもしれない。マイスター制度があれば、所謂はんぱ職人が独立して店を構えることはない。親方達の厳重な審査を経なければ独立も開業も叶わないからだ。またユニオンがしっかりした国では、施主に頼まれたからといって大工が壁を塗ったりすることも出来ない。何故なら左官の組合(ユニオン)が職域を犯されたと文句をつけてくるからだ。
 その点この国では、やりたい放題の無秩序が溢れている。日本じゅうはんぱ職人だらけのオーバーストア状態になっているといっても過言ではない。続く。