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2009年1月30日 (金)

カッファエンジン研究所報8

カッファエンジン研究所報8
二つならんだアルミ製の水筒。どちらもスイスSIGG社製のものだ。しかし作られた年代が違う。右は私が35年程前に買って以来愛用しているもの。私が山に出掛ける時にもよくお供をしてくれたし、平地でも時にウィスキーや焼酎が入って活躍してくれる。左の猫の絵の付いたものは去年友人からいただいた新品。最新式のキャップが付いている。このSIGG社製の水筒が優れているのは第一に絶対に水漏れしないこと、第二に飲み物の味が変わらないことだ。その絶対の信頼性がないかぎり世界のアウトドア愛好家に支持されることはなかっただろう。しかし当研究所が取り上げるからにはそんなことを問題にしているはずがないことは読者諸兄も既に気づいていらっしゃることだろう。この水筒の凄いのは変わらないというところなのだ。何が変わらないのかって。35年前のボトルに最新のキャップがそのまま付くのである。こんなことは悲しいかな日本製ではあり得ない。新しい水筒を友人からプレゼントされた時に偶々古いほうがあったのでキャップを付け替えてみて驚いた。私自身そんなことは予想していなかった。
だいたい日本製品は仕様を変えすぎる。いたずらに買い替え需要を喚起しているだけのように私には思える。百年の計で物づくりをしていないことは論を待たない。一発台風が来たら、その年は全滅。また来年頑張ればいいという稲作文化が今だに抜けきれていないのではないか。場あたり主義そのものだ。
 現在この時点で物づくりの現場で働いている人達からは、「改良を加えてどこが悪い」という反論が返ってきそうだが、変えるべきではない基本的な部分は変えてはいけないのだ。
 身近にある物を例に挙げてみよう。乾電池の頭の部分(いわゆるヘソ)がこのところ低くなっているのに気がついている人はいるだろうか。殆どの人は無関心のまま電池交換をしていることだろう。バッテリーの容量を多くして、少しでも電池寿命を延ばしたいという開発者の気持ちは分かる。しかし基本的なところはいじっては駄目なのだ。乾電池には伝統的にサイズというものがある。現に私が長年愛用してきたひげそりや目覚まし時計は使えなくなってしまった。単三乾電池の肩の部分が電池入れのスペースに当って入らないのだ。こんな馬鹿な話があるだろうか。この電池の入らないお客様はお手持ちのシェーバーをお買い換えくださいとでも言うのだろうか。
 地デジ移行については、その一方的なやり方について反対意見が噴出しているが、こういった電池のような小さなものに異論を説える人は殆どいない。画質に優れたベータ方式、馬力の稼げる2サイクルエンジン、低燃費で故障知らずのOHVエンジンと絶滅した旧技術にも見直すべき点は多い。ピエゾ噴射、コモンレール方式で甦ったディーゼルエンジンがいい例ではないか。
 SIGG社の水筒の話だった。口金の径、ネジのピッチをいじっていない点以外にも優れた点が数多くある。まず旧型について言及すれば、栓である。何故あの写真のようなつまみが付いているのか。まん中に穴があいている
。この意味は長く使っている人でも気付かずにいる人が多いと思われる。あのつまみ自身がよく手になじんで開け易いからだ。しかし、気が付く時がいつか来る。気圧の変化で開かなくなった時に棒を突っ込んで捻るためだと。さらにあの栓には秘密があって、途中までゆるめた時点で中の液体が少量づつ出せる穴があいている。
 新型のほうはどうだろうか。これはこれで優れた点が数多くある。あんなに不格好な程頭が大きいのは何のためなのか。それはとりもなおさず開け易くするためだろう。あの栓は二重構造になっており、乳首のような吸い口の根元のネジを緩めると中の飲物が出てくる。ここで一応出てくるとは書いたのだが、正確には吸わなければ出てこない。誤って水筒を倒しても中身がこぼれてしまうことはない。巧みというしかない設計になっている。
こういった地道な改良の努力こそわが国で物づくりをする人達が学ばなければならないことではないだろうか。


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